2016年09月27日

続 さやけき生命(3)

      (前日から続く)
 こういう誠心とか祈り心とか静か心
というものは、目に見えるようで見えない。
 その人がいくら信心深く装(よそお)って
いても、外から見てすごいなあと思っていても、
私達がこちらから見ているとですね、
すごい虚栄がある人だねと見てしまうことが
ありますよ。
 そうすると、ほかの人はごまかせるけれど、
神様はごまかせない。
 ふりをすることはいくらでも出来るけれども、
ふりが通らないのが神様です。
 神様というのは、例えば、何十万も何百万も
お布施を上げないと、こちらに光を送って
もらえない、振り向いてもらえないとか、そんな
ものじゃないんですね。何故かというと、我々
みんな神様から分かれて来た生命なんだから、
その元に向かって自分が動いてゆく、
働いてゆく。そこに向かって素直に語りかけて
ゆく。そういうところを神様は喜ばれる。
 「愛(う)い奴じゃ」てな感じでね。
 ところが、そういうことというのは、さき程
申しましたように、本当に目に見えない地味な
ことなんですね。
            (翌日へ続く)
posted by wadatsumihirohime at 08:27| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月26日

続 さやけき生命(2)

       (前日から続く)
 この一番必要なものというのは、イエスも
“なくてかなわぬものは一つだけだ”と
言いましたけれども、あのマルタとマリアの話の
中で、妹のマリアは、イエスが来た時にじっと
座って、イエスの話ばかり聞いていて、姉の
マルタは、一生懸命イエスをもてなそうと色々
用意していて話も聞けない、それでマルタが
イエスに訴える場面がありますが、そこで
イエスが言ったのは、マルタよマルタよ、
そんなに心を騒がせないがいい、なくてかなわぬ
ものはただ一つだ。マリアはそのよい方を
選んだのだと。これをそのままにとったらね、
マルタは無駄働きをしているように思うけれど、
そうではなくて、そのせわしく人間が
追い求めてるものが必ずしも全部人間に必要な
ものじゃなくて、本当に静かなものというのが
人間を養う。その人間を養う静かなるもの、
なくてかなわぬもの、つまり、神様に向かっての
誠心が私達の生命を養っているものだという
ことなんです。これこそが、自分達の
生きる元です。
             (翌日へ続く)
posted by wadatsumihirohime at 09:50| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月25日

続 さやけき生命(1)

 引っ掛(かか)らず生きてゆくということは
非常にむつかしいんですね。何もうまく
ゆかないとか、どうしたらうまくゆくだろうとか、
そういうことばかり考えるように人間というのは
出来てる。というか、そういう想いの習慣で来て
しまっている。そうですね。ところが、神様の
世界の中では、うまくゆくもゆかないも、
ちゃんともう備わっていて、そのままゆくように
なっているんですよ。人間の方が、
あれやこれや思い悩んで、奥のものを見る
ということがだんだんなくなって来てる。

 そういう習慣をつけるということが、昔は
あったんだけれど、今は少なくなって来た。
 そういうことで、なんかこう静か心という
ものが無くなって来た。静かに自分の
裡(うち)を省(かえり)みるとか、自分という
存在は何だろうというようなことを見つめる
ことが、少なくなって来てるんですね。
 ところが、そういうことが、人間の生命を
養うんです。つまり、祈りというものが人間の
生命を養ってゆく。静かに自分を省みて、
静かに目を閉じてみる。そういう時間が
本当は自分を養ってゆく。

 ところが今世の中はせわしくなっていて、
セカセカ動いている。セカセカ動かないと、
自分が置いて行かれるようなスピードで
皆んなが動いているものだから、自分も
動かないと置いて行かれると感じる。その
繰り返しで、追い付け追い越せですよね。
 ところが、神様の世界というのは、何もしなく
ても必要なものは全部与えてもらえる。
 その代わりに何が一番必要かというと、神様に
向かって素直に神様よろしくお願いしますという
心、それが一番必要なことになる訳です。
               (翌日へ続く)
posted by wadatsumihirohime at 07:47| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする