2016年11月27日

私は 呑気

  〇
私には
こころを
騒がせるものが
何もない

  〇
一切を
神に任せて
呑気な
五井先生

posted by wadatsumihirohime at 09:54| 祈り | 更新情報をチェックする

2016年11月26日

神の光の流れのままに

私は
神の光の流れのままに
すべてを
語ってゆく

posted by wadatsumihirohime at 10:05| 祈り | 更新情報をチェックする

2016年11月25日

つねに私どもをつつむものは 神の愛である

つねに新しくされてゆく
ということ
新しい自分にかわらされている
ということは
いいかえますと
つねに
古い自分を脱ぎ捨てている
ということであります

肉体人間の想念というものは
つねに
自分の境界線を
守ろうと致します
たとえば
それは
家族であったり
財産である
というような
目にみえるものばかり
ではなく
自分の心という
他者からは
見えることのない
ものも
必死になって
守ろうと致します

それが愛着から
仮にはじまったことである
と致しましても
それは
やはり
とらわれになり
こだわりになる
いうならば
自分でも
気がつかない間に
自ら業想念の
世界の渦のなかに
まきこまれていることが
多々
あるのであります

かぎられた
肉体界
また
肉体人間のおもいに
とらわれておりますかぎり
真に
自分があたらしくされてゆく
ということは
想起だにできない
ことでありましょう

これまで
幾多の聖者方が
この地上に降りて
道を切りひらかれながら
世界中の人々が
心をひとつにして
この肉体以上のものに
無理なく眼をむけるという
ことは
遂に成就されぬまま
時代はすぎていったので
あります

ところで
わたくしは今
あえて
祈りという
言葉を
用いなかったのでありますが
つねに新しくされる
ということは
ただ
肉体のおもいに
とらわれているだけでは
とうてい
かなうことでは
ありません
私どもが
真実
新生しつづけるためには
絶えざる祈りというものが
絶対に不可欠なので
あります

本来
人間と
申しますものは
その本体は
たとえ
無神論者であっても
また
唯物論者であっても
ずっと
その姿を
観じ
生命を
観じて参りますときには
等しく
みな
祈っているもの
なのであります
その本来の姿を
地上の
肉体界の
粗い波動のうちに
生きる間に
すっかり
忘れ果ててしまって
いる
というのが
現代の人間の姿なので
あります

人は皆
空を
飛ぼうと致しました
そして
その夢を実現するために
さまざまに
工夫がなされ
研究がなされた
のでありますが
同時に
そこには
敬虔な
祈り心
というもの
神を
また
自然を
この宇宙を
畏れる心
というものが
存在していた
のであります
憧れと畏れとが
交叉し
そこに
さまざまな科学が
あらわれることに
なったのでありますが
これらは
すべて
神のみこころに
よって
霊界の科学が
降ろされていた
というのが
真実のすがたなのであります

当時
科学と人類の進歩に
たずさわる人々は
はっきりと
意識して
これらのことを知っていた人は
ごく稀でしたけれども
その本心本体では
真実の姿を
諒解していた
ということが
いえるのであります

ところが
だんだん
世の中が
すすむに
したがって
人は
自分達の智恵と探求心が
科学を生み出した
と思いはじめ
畏れはじょじょに
失われて
いったのであります
そして
旧約聖書の
バベルの塔ではありませんが
もはや人間は
神を必要としない
というところまで
自分達自身を
追いつめて
業想念波動を
つよめてゆくこととなったので
あります

私は
人間が
神の分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)であって
業生ではない
ということを
身をもって
知っている者です
ですが
それは
あくまでも
自分達のいのちを
守らしめている
神の愛念に対する
絶えざる
感謝行
祈り
というものが
あってはじめて
業生ではない自分
光かがやく自分
というものも
あらわれてくるので
あります

人間は
ただ
お金をもうけるために
働いて
飲んで
喰べて
というような
単純な存在ではありません
肉体を持っている以上
肉体をいたわり
肉体を養っていくことも
大事な
ひとつの
つとめではありますが
それ以上に
さながらの生命に
生かされている自分
朗らかな光のいのち
としての自分を
みつめて
感謝して
生きてゆくこと
これが
何よりも
大事なことに
なってくるのであります

肉体の自分と
朗らかな自分とは
別の自分ではなくて
実は
明るく朗らかな
光にみちた
いのちのながれそのものの自分
というもの
つまり
本心の自分というものが
肉体の自分を導いて
いるのであります
そして
それは守護霊守護神
神の愛念に
よるのだ
ということに
気づかされるとき
ひとりでに
祈りというものが
私どもの唇を
突いて出ずには
いられないのであります
あるいは
この久遠のいのちの流れと
いうものの大元の世界へと
目を向け
あおぎみずにはいられないので
あります

人によって
その存在を
神と呼ぼうと
仏と呼ぼうと
あるいはまた
自然と呼ぼうと
宇宙と呼ぼうと
それは
自由でありますけれども
とにかく
人智というものを
はるかに越えた
大智慧
大円光
大愛の世界に
ぬかづいて祈って
参りますときに
人は
その身内の最奥にある
霊なるいのちと
呼応して
つねに新しくされる
自分
というものを感じてゆくことに
よろこびを覚え
古い自分を
その都度
脱ぎ捨ててゆくことに
何ら
こだわりを
感じなく
なるのであります

私はこれを
一切は消えてゆく姿
今おこっていることは
過去の自分自身があらわれて
そして消えてゆこうとしているのだ
だから
よいことにも
悪いことにも
とらわれずに
世界平和の祈りを
唱えつづけてゆけば
本当に
光ばかりの世界が
あらわれてくるのだ
と説きつづけて
参っているので
あります

私たちは
永遠の進化を
神のみふところのなかで
その光をいただきながら
遂げてゆく存在なのであります
一切
とどまるものは
ありません
しかし
つねに私どもを
つつむものは
神の愛であります
私どもは
こうした
無限の神の愛に
感謝しつつ
日々
世界平和の祈りを唱え
私どもの本心の光が
少しでも
この世界の
そして宇宙の
平和のために
役立つものとなるように
すごして参りたいもので
あります
      平成2年3月10日
posted by wadatsumihirohime at 07:53| 祈り | 更新情報をチェックする