2016年12月31日

愛のはたらきについて

 私はマイクの前に立って、こうやって
皆さんの顔を見ながら、何を話そうかとか、
今日はこれについて話そうかとか、そういう
ことは一切考えていないのであります。
 だから、質問をどうぞというのは、質問を
きっかけにして、私は、神様のこと、神様が
どんなに人間を愛しているかということ。
 で実は、神様の愛の働きによって人間が
生かされているということを伝える。
 そういう場所に私がなるという
ことなんであります。

 だからいつか申しました様に、釈迦が来る
こともあるし、キリストが来ることもあるし、
老子が来ることもあるし、色々な人が
私の体に降りて来て、そうして、その方面の
ことをしゃべってそして又出てゆく。だから、
私の体というのはカラッポなんだとね。私は、
生命(いのち)はもう神様の中へ帰しました。
 帰した時に、とに角まあキリスト教で言えば、
“御心のままになさしめたまえ“というあの
主の祈りの中の、ああいう気持ちになって。
 自分がなったんじゃない、何か奥の方が
なって、そうして、そういう活動をなにかしら
させていただける様になって、今日になって、
今こうして喋べっている訳ですけれども。私
というものは一切無いんですね。何があるか
というと、神様の愛がある。それだけ
なんです。その愛というものは、私の為
だけにあるんじゃなくて、これは実は、我々
人間全体の為にある。
 この地球世界の自然とか、色んなものが
色んな形で生きていますけれども、それこそ、
生きとし生けるものの有りのままの姿を
そのまま生かして、さながらに生かして、
その生命(いのち)が完うする様にというので、
その愛が注がれている。その愛の姿という
ものを、皆が、ああそうだなと思って納得して
感動して、そうして、それぞれが静かな想いに
なって、神様というものにねその想いをはせた
時に、皆が神の子なんだということになって
いきますでしよ。

 そして次には、他愛ですね。他を
愛すること。他を愛することというのは、
自分のまわりを確認できることなんですね。
 自分のまわり、自分の生命が何によって
支えられて、まわりの人の色んな親切だとか、
色んな想いだとか思いやりだとか、そういう
ものによって生きてる。生かされている
ということを確認する。この現実の
世の中でね。そして、自愛というのは、
そういう感謝のおもいを今度自分が確認して、
そうして、じゃあ何をすればいいかという
ことになると、自分を本当の意味で
労わってね、そして生きてゆく。その自分を
本当に労わるということの中には、人間の心
には、色んな姿があります。見たくない、
こんな自分は確認したくない。こんな自分は
見つめたくないという想いがありますよね。
 ですけれども、それをずっと見て、ああ
こういうやり切れないものを人間は
持ってるんだな。そこが自分の中で確認
できれば、人間というものは高められて
ゆく訳。

 人間というものは弱いですから、何か
あれば、神様仏様とすがるけれども、何も
なかったらやっぱり、そっちの方へ想いが
行かない。だから、色んな祈り言葉がある
というのは、その祈り言葉を階段にしてね、
そうして、自分の本当いえば姿、自分は
何なんだということを突き詰めて考え、
そうして又知らされる。その為に祈りが
ある。そうすると、我々を生かしめている
ものは神の愛でありますから、その神の愛
というものを、神様のというものをとって
しまっても、神様の愛が人間の中に働いて、
そして、我々が生きているとすれば、この
愛の働きというものはどういうものかという
ことになると、これは森羅万象すべてに
わたっているということになってしまうと、
説明のしようもないものでありますけれども。

 とに角、愛というものは何かというと、
まず一つには、自愛ですね。自分を愛する
ことですね。想いを確認して、それを
抱きしめるんじゃなくって、それをパーッと
祈りの中へ放すわけです。祈りの中へ
入れちゃうと、それはどんなに業に満ちた
ものでも、あるいは闇というものがあっても、
それは光になりますから、祈りの中へ
投げ入れちゃってね、あるいは、神様、
五井先生といって投げ入れてしまったらですね、
それは業は業でなくなるんですね。そこで
消えてゆく訳ですね。
 そういう意味で、自分を愛する、自分を
確認する、自分を労わる、ということは、
自分の中にある人間の色々な心の姿を
一つ一つ取り出して、そして浄めて、
浄める為に祈りをして、そのおもいを
まわりに、その祈りをまわりに巡らして
ゆくと。そういうことがある訳です。それが
一つの愛というものの実相なわけですね。

 愛というものは限りがありません。ここ
までが愛でこっからが愛じゃないとか、ここ
までは愛情だけれどもこっから一歩は愛じゃ
ないとか、そんなことはありません。限りが
なくって尽きるところがなくって、その
尽きるところがないものに支えられている
ということがわかりますと、人間はどう
なってゆくかというと、もうとに角、自分の
生命(いのち)というものは窮まりが
ないんだということに、だんだん気がついて
ゆく訳です。なぜかというと、人間を支えて
いるものが神様の愛で、しかも私共がいつも
申し上げておりますように、人間の生命
というものは肉体だけのものではありません。
 貫いてずっとむこうの世界まで行っても
まだまだ続いてゆくのが生命ですから、
つまり永遠の生命ですから。
 その生命を貫いている愛というものが
尽きるということがなくって、生命という
ものも尽きるということがないとすれば、
じゃあ人間の働きというものは、そこに
気がついてみると、そこに気がついてゆくと、
本当に充実しきった想いになってゆく訳
ですね。何があっても壊れることはない。
 絶やされることはない種、生命の種という
ものを自分の中に持ってる。ね、持たされて
いる。あるいはいただいてるということに
気がつくとですね、こんな喜びはない訳ですね。
 そうすると、自然に自分の気持ちが
落ち着いてきて、今色んなことがあるにしても、
自分は尽きることのないものを貰ってるんだ、
神様から貰ってるんだ。神様の愛というのは
無限なんだということになってきますと、
だんだん、荒い肉体を囲んでた業の波動と
いうものが、祈りによって浄められてきまして、
気がついてゆくに従って、荒いはずの波動が
細かになっています。
 そして、細かになってきて、だんだん色んな
人の色んな想い、やりきれない想いだけじゃ
なくって、心を求めている、人を求めている、
淋しがってる、そういう人の想いに人間という
ものは気がつくようになってまいります。
 そうして気がついて、それに感応して
関わりをもって接していきますと、そこに
何が生まれるかというと、そこに愛念という
ものが生まれてまいりますね。そうして、
それがどんなに細やかのものであっても、
その間に働くものというのは、深いものが
ございますから、そこで生まれてくるものは
本当に光明に満ちたもの、光に満ちたもの、
愛に満ちたものになってゆく訳です。
 そんな風にして実は、人間というものは
気がつかない内に、この世の中で、一歩でも
二歩でも進歩をしよう進化をしようといって、
歩みを止めては本当はいないものなのですね。

 色々な所で紛争がある。色々なところで
戦争が絶えない。現象だけをみてると、
こんなんで世界は平和になるんだろうか、
どうなんだろうかと思う。思うけれども、
それは自分の気持ちの感情の部分が
思うんであって、自分の本体そのものは、
皆さんの本体そのものは、世界が完全に
平和になるということを知って生まれて
きている生命なんですね。そうして、
白光真宏会にきて私に会って、魂そのものは
それを覚知してる本体なんです。ですから、
そこのところは全然動かされていないから、
何があろうと、この世界というものは平和に
なってゆくし、愛に満ちて調和になってゆく
ということはわかってますんでね。そこに
向かって我々自身が生きているということを
確認しますとね、随分我々というものは
落ち着くものなんですね、そうしてその働き
というものも、だんだんだんだん自分の為の
働きというよりもですね、他者の為の、
他者の為から自分のまわりの世界、まわりの
世界というとだんだん広がって行って、
世界人類になり、世界人類からいうと今度
宇宙人類になり、という風に広がってゆく
訳です。

 我々の住んでる場所だとか、選んだ
ところは狭くるしくって、色んな制約が
ありますけれども、我々の本体そのものは
神様と直結しておりまして、その神様の愛
というものは無限であるということになって
きますと、我々が器として要求されて、
あるいは動かしていただくその場所も無限
である。
 ね、霊界神界とつながっていて、天の私と
地の私がそれこそつらなっていて、一体と
なっていて、そこで働いている。そういう
生命なんだ。そういう働きを我々はこれから
してゆくんであるし、又今しているんだ
ということ。そしてそういうところに、
少なくとも想いをはせて祈りをしてゆく
ときに、色々な人の想いが思いやりという
ものがこちらへ伝わってきて、そうして
自分の中の色んな想念の想いの掃除という
ものができる。

 色んなことを申しましたけれども、自分を
まず高めてゆく。高めるというのも、ただ
単に知識を高めるとか智恵を磨くとかという
ことだけでなくて、自分の中の本心、霊性
というものを磨いてゆく、肉体だけではない、
自分の生命というものに目をそそいで生きて
ゆく。そうしてゆく内に、だんだんだんだん
愛というものが深まっていって、そして、愛
だけじゃなくって、愛につれて働いてゆく
生命そのものも、今度は愛を呼んで
くれる様になるんですね。

 それは何かと言うと、例えば、この
世の中で働くということは、生きる為には
お金を得るということです。そのお金にも
愛憎がこもってくる訳ですね。つまり、
苦しいばっかりだと苦しい想いがお金の中に
こもっちゃう訳です。苦しいが来るんです。
 そうすると、お金が入って来ても苦しい、
入って来なくっても苦しいという状態が
くるんですね。あるいは不安とか不平とか
不満とかね。そういう想いが積もり積もった
上で、例えばお金を受けとると、そのお金は
ちっとも嬉しくないでしょ。つまり、お金が
入って来ても自分の心が自由じゃないね。
 想いが自由じゃない。何か解き放たれない。
 そういう中でお金を受け取ってもね、その
お金は死んでるんですね。お金ってものは、
この世の中を生きてゆく一つの手段であって
絶対的なもんじゃありません。肉体を養う為の
ものですけれども、それでもこの現象世界の
中の一つ一つのものを尋ねてゆけば、全部
それは生命体です。本来の生命に帰って
ゆくもんですから、やはり物質世界のもの
であっても、そこへ向ける愛念というものが
浅ければ、つらい想いの方が強ければ、
それはそれだけ現象なんだけれども、
その現象を通して自分の中の本心開発が鈍る
ことになる訳ですね。 
 だから、受けとるもの、暮してゆく為に
受け取るお金にしろ人にしろ、関わってゆく
関わり方にしろ、ここでどういう働きを
しなきゃいけないか、つまり自分がどう
接してゆかなきゃならないかということは、
祈りをずうっと深くしてゆくと、自然自然に
その自分の中の想いがですね、掃除をされて
いって、そうしていつの間にかしら、人に
対してもやさしい気持ちになって和らいだ
気持ちになって、一つ二つは還せるように
なってく。最初から何も完全にこうしなきゃ
なんないということはないんです。そんな
ことは考える必要ないんですよ。ちっとも
考える必要なくってね。私はもうこんな風に
又言い返しをしてしまった。こんな風に又
主人に口答えをしてしまった。ね、奥さんに
又こんな風に思いやりの無いことを
言っちゃった。そりゃあ夫婦だったら
夫婦喧嘩もするでしょう。親子喧嘩もある
でしょう。ね、それから同僚だって、本当に
虫が好かない奴もいればね。会の中だって、
いつもいつもニコニコ顔という訳じゃない
だろうしね。人間の集団なんだから。
 それでもそれを浄めてね、そうして生きて
いく術ということになれば何かと言えば、
それは祈りなんですね。祈りの中に光が
あるし、祈りの中に愛があるし、そうして
祈り一念になって、自分の中にある光明
というものを、確認をその祈りの中で
奥の体がしていって、いつのまにかしら
やってゆくと、そういう大きな深い愛の
生命の中へ自分がさーっと入ってゆける様に
なるんです。

 自分の力がないから非力だから、自分は
こんな大きな役目は出来ないとかね、何とか
思って自分を閉じてる間はこれは我
なんですね。そんなものは、人間に力がない
ということはむこうが百も承知です。

 肉体人間そのままの、我の人間そのままの
生命だったら、神様は使やあしません。そん
なものは。そうじゃなくって、肉体人間の
奥の生かしてるものは何かといったら、
神様の愛なんだから、その神様の愛、
自分のね、生命を分けた光を分けた光の
一筋の光線の一筋一筋のいとしい生命を
神様が抱きとって、そうして働きをさせよう
というんだから。その時にあなた方が
どんな風に自分たちが非力だと考えようと
何しようと、そりゃあむこうの知ったこっちゃ
ないんですね。その時にはまかせなきゃ
いけない。任せきった時には、自分で思いも
かけない働きというものが出てくる訳
なんです。それは任せ切った時に出てくる訳
なんです。任せ切るっていうのも、自分で
任せよう任せようとかね。任せなきゃとかね、
そんなこと考える必要ないんです。皆
向こう側が下さる働きなんだから。自分が
ゼロなんですね。あるいはゼロ以下なんですよ。

 肉体人間としてみればね、何も出来る
もんじゃない。凡夫なんだね。親鸞が
言ったように凡夫なんです。凡夫なんだけども
任せきってね、南無阿弥陀仏なら南無阿弥陀仏、
世界人類が平和でありますようになら平和で
ありますようにの祈りの中に自分というのを
入れてしまうと、そこで、自分の中へ普段は
奥の方へ入らされている光明というものが
燦然と輝き出してきて、祈りになって、一体
になって、そしていつの間にか神様と一緒に
なって働ける。そういう生命というものを
我々は種として、生命の種として自分の中に
持ってるんだということね。それを忘れて
しまったら、これは卑下高慢になるんですね。

 生きてゆくってことは苦しいことです。
 生活というのは大事なんです。だけれども、
その生活とか生命とかそういうものを
支えてるものは何かといったら、神様の愛
だから、その神様の愛に入るということは、
現実をバカにすることでもなきゃ何でも
ないんです。その本来の生命にかえって、
神様に任せきった時に、神様がさーっと
救いあげるし、神様が働かせるし、その時に
自分だけの働きじゃない、まわりの人だけの
働きじゃない、もっと深いもっと大きな働き
というものを、愛というものは
なさしめるんです。なぜならば、それは
神様から出ているもんであるから。そして、
我々も神様の生命一筋であるから、それが
出来なきゃうそなんです。
          昭和63年5月5日
             五井昌久
posted by wadatsumihirohime at 10:51| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月30日

守護霊について

私共の祈りの中にある最後に、守護霊さん
守護神さんという呼びかけがありますが、
その守護霊さんというのはどういうものか。
 よく個人相談の時にでも、あるいは講話が
終わった後にでも、「先生、私の後に誰が
ついているんでしょう?」と、こういう
ものは、皆聞きたいものなんですね、それで、
「あなた、おじさんがついていますよ」とか、
「おじいさんがついていますよ」とか。
 まあ見える限り、知らせていい限り、私は
知らせて安心してもらうということを
言ってるわけですが。

 守護霊さんというのは、これは先祖さんの
たとえば悟った霊がつくとか何とか今まで
ずっと説明をして来ましたけれども、もっと
言うと、そのつながりというものを、人間の
つながりというものは、例えば、この
世の中の肉体の生命の何十年というそんな
つながりの浅さではなくて、守護霊さんと
我々のつながりというのは、実はこの
世の中に出てくる以前からずっとある訳
ですね、霊界の段階からある。

 だから、生まれる前から知っている。
 生まれる前からというと、こういう世界に
馴染みのない人は、じゃあ記憶のない前から
かということになりますけれども。

 記憶というのは、これはずっと前生、
前々生とさかのぼって行って、つまり、
我々が肉体人間になって修行をずっと
重ねて行って、あらゆる天命そのもの光
そのものの光明体になるまでのその修行、
その途中途中で、例えばこの世の中に
50回生まれてくる人、100回生まれて
くる人、いろいろある訳ですが、その中での
記憶を全部いちいち持ってたら、人間という
ものは苦しくってですね、この世の中に
生きていられないから、それを消してゆく訳
ですね。だけども、その中で、それぞれの
かかわりの中で、この人がついた方が
いいなあ、この人をこの一生を貫かせる
為には、こういう人が守護霊さんとして
ついた方がいいなというのを、霊界の方で
決めて、そして、それが例えば、教師で
あるなら、子供たちと一緒に遊べるような
無邪気な、そうして霊性も高い、そういう
人の守護霊さんというものを、そうして、
関わりのある人を連れてきてそこに付かせる
訳ですね。だから、よく私が申しますが、
天才の仕事というものは、あるいは天才
でなくても秀才でも鈍才でも構いません
けれども、我々の仕事というものは、
守護霊さんに助けられてやっているんだと。

 例えば、音楽家の仕事であっても、その
音楽家ならずっと霊視してゆけば、バッハが
ついているとかベートーヴェンがついている
とかシューベルトがついてるとかね。
 あるいは滝廉太郎がついているとかね。
 そういう何か、その道ですごい仕事をした
人の守護霊さんがついているという場合も
ありますし。
 その守護霊さんというのは何かというと、
愛念なんですね。あなたならあなたの一生、
その人ならその人の一生というものをよく
知り抜いていて、そしてしかも、愛し抜いて
いて、そうして守り抜くと。

 それは、この世の中へあなた方が出てくる
前から、そして、今度死んで肉体が
なくなって向こうの世界へ移って、向こうの
霊界修行でも、その守護霊さんというのは
ずっとあなた達を守ってついてゆく。
 守護霊さんというのは休息がないわけです。
 肉体人間というものは、ずっと眠らずに
何日か起きてらっしゃいと言えば、一週間も
すれば、人間は死んじゃいますね。何故か
というと、霊要素というものを眠ってる間に
こっちで(こっちでと言うのは霊界でですよ)、
霊界で補給しないことには、人間というのは
生きてゆけないから、そこで眠らせて生命を
つないでゆく訳ですけれども、守護霊さん
というのは、そういう休息がないから、その
人の一挙手一投足どころか、一秒一秒
一瞬一瞬のその人の想いに付き合って、
その想いの中に、すこしでもきついものね、
つまり、やりきれないもの悲しいもの─
色んな想いが出てきた時に、それを
どんな風にして消すか、軽くするか。つまり、
この世の中をただ単に肉体だけではなくて、
霊の生命もですよ、全部含めて、どう
やったら生きやすくするかという事を
四六時中考えてる。

 それはやっぱり、守護霊さんというものが
神様の愛というものを知ってて、そうして
その愛念をよく知り抜いて、あるいは体で
うつした人だから、それが出来るんですね。
 これはやっぱり、そういうことが
わからない人が守護霊さんにつくという
ことはないんです。そうでなかったら、
守護霊さんの方が潰れちゃいます。人間
というのは、業の世界の中でこうやって
息して生きてる訳ですから、この業の世界
というのは、この個人の業だけじゃなくて、
地球全体の業の現われの中の一つを人間が
受け持っちゃってる様なことに
なってますから、その業を、魂の訓練
というか、そういう神様の本然の愛という
ものを知らないものが、もし守護霊さん
としてついたら、そっちの方が、守護霊さん
の方が潰れ死んじゃいます。そうじゃ
なくって、その業にも負けない、あるいは
その業を光に変えてゆく、光明化してゆく。
 それだけの力と覚悟と色んなものが
備わってる人が守護霊さんになる訳です。

 でも、守護霊さんになるといっても、
守護霊さんというのは、おおむね肉体人間の
経験のある人がなることが多いですから。
 そうしますと、むこうへ行って、霊界に
行って、霊界には様々な修行場があります。
 その修行場で又修行して、そうして自分を
透き通らせて、想いを愛深くして、それだけ
じゃなくって、誰々の守護霊につくという
場合は、その人の色々な想いを受けとっても、
その人と一緒になって悲しむ、その人と
一緒になって悩む、それだけの大きさ
というか深さというか、そういうものが
なければやはり守護霊さんというものは
務(つと)まらない。

 なぜかというと、人間というものの癖を
本当に知り抜いていないと、あるいは
その人というものを知り抜いていないと、
守護霊さんというものは、とても導けるもの
じゃない。あるいは、神様の愛というものを、
エネルギーというものを、光というものを、
この地上に送るというそんな大役は出来る
もんじゃない訳なんですね。だから、それ程
守護霊さんというものは、つまり魂の
大きな人。単に幽体が大きいという訳じゃ
なくて、愛の大きな人。その愛というものは、
神様から流れてくる愛。それを受けとる力の
大きい人。そして、その愛を受けとって、
その愛を注ぐことが深い人。

 人って言ってますのはね、人って言わない
ことには、これは皆さんに伝わりにくいから
人って言うわけでして。大きく言いますと、
流れですね。ひびきですね。

 我々の生命というものは、何によって
生かされてゆくかと言うと、それは神様の
愛によって生かされてゆく訳ですけれども、
それを手助けしてるのが守護霊さんで、
守護霊さんというのは、守護神さんと一緒に
なって、その神様の愛の根元、愛の根元
なんていうと又わかりにくいかもわからない
けれども、その愛の元であるひびきに我々を
のせてく訳です。
 あるいは、愛という流れの中にのせてって
下さる訳ですね。で、私共の会では、その
ひびきとか、神様のひびきとか、神様の流れ、
愛の流れというものに、のりやすいって
いいますかしらね、一体化する為に何が一番
いいか。ずっと私が修行させられて、そこで
受けとらせていただいたのが、世界人類が
平和でありますように、日本が平和で
ありますようにという、あの祈りなんですね。
 そして最後に、“守護霊さん守護神さん
ありがとうございます“と言った時に、
守護霊さん守護神さんというのは、ひょっと
こう、私達の本心をあるいは霊体をですね、
さあっとそのひびきの中へつれてって
下さる。のせて下さる。
 そうして、その祈り言を肉体の私が、
肉体の我が唱えると同時に、天界の神界の
私も同時に唱えると、神我一体になってると、
その時には、もう肉体の自分だけじゃ
なくって、天地貫いて私というものがあって、
その私というものは、愛のひびきの中で
神様と一つになってるんだということ
なんです。そして、そのひびきを手伝う
というか、そのひびきの流れにのせて、
その光明をパーッと振りまく、一番親しく、
最後の最後までお手伝いするのが
守護霊さんですね。

 だから、守護霊の愛というものは、これは
なまなかの愛じゃない。これはもう本当に
生命がけの、生命がけのと言ったって
守護霊は死にませんけれどね。死なない
けれども、その位の覚悟の愛なんですね。
 しかも、肉体を経て来ているから、人間が
どれ程悩んで祈って、もうその想いが
かなえられない、願いがかなえられない、
自分はどうやって生きてったらいいのか、
家族をどうやってみてったら
いいのか・・・とかね。あるいは、商売がうまく
いかないとかね。そういう現実のことだけじゃ
なしに、精神的な面でも、自分はどうしたら
いいのかとかね。色々つき当たって悩んで、
ぶち当たって、もうどうしようかという
行き詰まりのどん詰まりのどん底の想いを
知ってる訳ですよね。知っているから、
よけいにその光をどうやったらこの人に
出しやすいか。ひびかせやすいか。その人の
ことを知り抜いているからこそ、守護霊
というものは守ることができる。

 そういう守り手に我々は守られている。
 そうして、光のエレベーターにのって
祈ってる。その幸せを得ている訳ですね。

 守護霊さんのことを言ってこのまま終わって
しまうと、じゃあ守護神さんはどうなんだ
ということに想いがいきますでしょ。
 ですから、守護神さんのことも少し
言いますと、守護神さんというのはですね。
 守護霊さんというのは人間の経験が
あるから、人間の、我々肉体人間の色んな
想いを手にとるようにというか、それこそ
わかる訳ね。一心同体になってるからね。
 その一心同体になりすぎて、疲れて、
そうして、疲れた守護霊さんのそのまた
悩み苦しみね、それを又とってくれる
というか、さらに高次元の愛と光を注ぐと
いうかしらね。そういうものですよね。
 そうして、守護霊さんを元気にさせて、
又、人間の為に一人一人の為に働かせる。

 守護霊も守護神もいよいよ困った時には
どうするかというと、私のところに来て、
私が柏手とか何とかでもって、ここで浄めて、
ついでに、ついでにっちゃあ悪いけども、
肉体の人間の方まで、皆さんの方まで柏手で
浄めてる。そういう今、日常なんですね。

 神界という所は、想いが浄まってる
とか何とか皆イメージで言うけれども、
やっぱり色々な高い魂の人達がより集まって
何を相談しているかといったら、人間の進化
なんですね。人間の魂がどれ程今
高まってるか。どんな所で今
止まっちゃってるか。悩んでるか。それを
見ているんです。人類世界というものを
見ているんですね。だから、どうすれば
いいか。それをどんどん下に降ろしてゆく。
 下に降ろしてゆくというのは、肉体人間の
想いの中に降ろしてゆく、その降ろして
いって降ろしていって降ろしていった先って
いうのは、肉体人間の子供から大人、老人に
至るまで皆が唱えられる祈りといったら、
世界平和の祈りだから、これを昇って
ゆく時に何の苦もなくといったら
あれだけれども、多少の日常の苦しみは
あっても、魂そのものは非常に昇ってゆける。
 高いところまでくることができる。
 スイッチを切りかえて、霊体そのものが、
細胞一つ一つまで喜びが満ちあふれることが
できる。そういう祈りでもって救済してゆく
以外にない。そういう時代に今立ち至って
いる訳です。

 だから神界というのはね、非常に全部が
調和している世界であると同時に、まだ
調和していない世界のことを見て、検討
してですね、そうして、そこに誰を
もってったらいいか。平和が完全に完成
する為には何が足りないか、誰が行けば
いいか、誰をどうすればいいかという
ことを常に考えている。そういう世界な訳
です。そこで、守護霊さんも守護神さんも、
神界の高次元なそういうものを想いを
うけてですね、そうして、愛情というものね、
愛というものと平和というものが完成に
向かってゆく為に、一歩でも二歩でもゆく
為に、皆休みなく働いている訳ですね。

 だけども、そういうことを抜きにしても
というか、そういうことは忘れてもらっても
いいけれども、取り敢えずとも角も、
守護霊さんというものは、本当に人間よりも
人間らしくといったらあれだけれども、皆の
生命が生き生きする為にどうすればいいか
という事を休まずに働いている。いよいよ
駄目になったら、私の所にやってくる
けれども。しかし、人間を愛する、心配する、
その為に悩む。その想いというものは本当に
深い。その祈りも深い。そういうことを心に
留めて、守護霊さん守護神さんありがとう
ございます。というあの言葉を出して
下さると、倍にも二倍にも光が注がれてゆく
訳です。その時に、自分の中の本体が輝いて
くるわけです。
       昭和63年5月5日
          五井昌久
posted by wadatsumihirohime at 09:32| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月29日

やさしさについて 序

   ──序── 
             五井 昌久       
やさしさとは
つまり
愛です
人と人との愛
神と人との愛
その
お互いの
こころの
交流のなかに
わき上がってくる
清しいながれ
それが
やさしさであり
愛なので
あります
      平成2年4月1日
posted by wadatsumihirohime at 07:40| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする