2017年01月28日

(一)富士聖地野外特別統一会で 四次元の光を受けた意義について(5)

      (前日からの続き)
 自分がもしガンになったり、体が動かなく
なってベッドで寝たきりの状態になった時、
あるいは、お金が一銭も無くなって、明日の
お米をどうしようとか、死ぬしかない
というような切羽詰まった時に、人間
というのは、この肉体の中では有限の生命を
生きているなあと、そして、この有限の生命
から思い起こしてね、無限なるものは
何だろうとね。永遠なるものは何だろう、
どこに救いがあるんだろうと、はじめて
自分の中を考えるようになるんです。

 しかし、人間というのは結局は、無限も
有限もない。ずーっと続いている生命でしょ。
 元々から自分はそういう存在だということは
分かって、この地上に生まれて来ている。
 そしてそれぞれの務めを果たして毎日を
生きてるわけですよね。でも、仕事が
おもしろくなかったり、お金の問題であったり、
奥さんとけんかしたり、父親とうまくいかない
とか、そういう現実の中の喜怒哀楽という
ことに把われますよね。それで、ウサ晴らす
のにお酒を飲んだりね、今ではカラオケですか。
 色んなことをやるわけでしょ。それは何か
というと、自分がそこに留(とど)まって
いたくない、留まっていたら苦しくなって
どうにもならなくなるということが判っている
からこそ、飲んだり食べたり、グチ
言ったりして、そこから抜け出そうとする
訳ですよ。でもこれでいいというのであれば、
そのグチの世界の中に、みんな沈んじゃう
と思うね。苦の中にみんな沈んでると思う。
 どんな種類のものであっても、ひとたび
その苦の中に沈んでしまうとね、その苦という
ものに耐えられなくなってしまうのです。
 何故かというと、それが本来の生命の働き
ではないから耐えられない。本来の自分じゃ
ないから耐えられない。

 じゃあ本来とは何だということに
なるのですね。現実に、お金があり、家族
にも恵まれて、社会的評価もされていながら、
何かさみしく孤独で空しく感じていたとすれば、
その人たちにとっては、無価値なものになって
来るかも知れない。例えば、月収100万の
人は、20万の人からみれば、天国の生活を
しているように思うけれども、当の本人が
それで本当に満ち足りているかというと、満ち
足りてない場合が多いんですよ。それで満ち
足りていないという所からもう少し進むと、
結局それが苦になって来るわけですね。苦に
なるにはいろんな事があるけれど、その苦に
なったが最後、今度はそこから抜け出ようと
もがいてくる。やはり人間というのは、本来
そういう世界の住者ではないからですね。
 魂の底では永遠なるものを求めている。
 永遠なるものをつかんでいないと、心の中で
つかんでいないと落ち着かない存在だから
なんです。
           (翌日に続く)
posted by wadatsumihirohime at 08:22| 祈り | 更新情報をチェックする

2017年01月27日

(一)富士聖地野外特別統一会で 四次元の光を受けた意義について(4)

        (前日からの続き)
 みんなは肉体を持っていますから、我(が)と
たたかいながら生きていますから、一歩一歩
抜け出して行ってね、進化をしてゆく。我々は
光なんだ、神様から流れて来ている生命なんだ、
死ぬも生きるもない、永遠の中に溶け込んで
ゆく生命なんだということをね、理屈、理論
ではなくて、感じてゆくというか、生命の喜びを
感じてゆく。そして、ありがとうございますと、
みんなに返して、もちろん神様にも、隣の人にも
近所の人にも家族にも返してゆく。そういう
ことが結局は、自分達を本当に守ってくれている
諸神善霊へ感謝の心を返してゆくことになるわけ
ですね。それは、自分がそこで自分の生命を
返してゆくことになってゆく。

 結局、人間というのは、毎日毎日生きて
ゆく中で、自分の生命を返しながら生きて
いるわけですね。一瞬一瞬死にながらみんな
生きているわけですよ。「地の上に新しきもの
なし」でね、「ゆく川の流れは絶えずして…」
ではないけれど、一瞬一瞬が絶対かえって
こない一瞬なんですよ。だから皆、毎瞬毎瞬
新しくされてる生命です。過去の自分は今
ここにいない。私がこうしてしゃべって
いますけれども、このしゃべってる一瞬も
もうかえって来ない。今日という日は絶対に
かえって来ない。その中でみんなが生きている。
 亀井勝一郎という人は、毎瞬毎瞬が臨終だと
思えばそれでいいんだ、そういう風に生きて
みろ!と書いていますけれど、恋愛論の中で
書いていますが、そういう風にして思えて
生きられる人はなかなかいないんですね。
         (翌日に続く)
posted by wadatsumihirohime at 10:01| 祈り | 更新情報をチェックする

2017年01月26日

(一)富士聖地野外特別統一会で 四次元の光を受けた意義について(3)

        (前日からの続き)
 「白光への道」にも書いてありますように、
これだけ世間が複雑になって、みんなの想いも
複雑になり苦しみが多くなって来ると、例えば、
諸神善霊も如来諸菩薩もみんな生き生きと動いて
働いているということを説いてゆかないと、
みんなが安心できない。ただ我々の多くの場合、
そういう霊的なことに左右されて日常生活が
営めなくなるということになると、現実のことが
やっていけなくなるわけですね。現実の皆が今
生きている、この肉体を大事にし生活も大事に
しながら、対人関係も大事にしながら、深い
深い祈りの方へもっていくことが非常に大事
なんです。そこの兼(か)ね合いですね。

 指導者というのは、自分の中に見える素質
というものを持たされている人達は、時に応じて
機会をとらえて、自分が今何を言わなければ
いけないのか、目の前にいる人達が何を求めて
いるのかを察して、ああそうか、我々は神様に
つながっているんだなあと、悲しみも苦しみも
あるけれども、全部消えてゆく姿なんだと、
神様の大愛によって、我々は養われているんだ
というところへ導いていかないといけない。
 それは自分ではなくて、神様が導いて下さる。
 そういう目に見えない世界の守りの中にあって
我々の生命が生きている。そこのところを
間違えてね、私が言ってるのにあの人は
言うことをきかないとか、祈りが足りないとか、
どうだこうだということになってくると、もう
我の争いになるわけね。そこにはもうその人の
生き生きと輝いている生命のことがなくなって
しまうわけね。
           (翌日へ続く)
posted by wadatsumihirohime at 08:31| 祈り | 更新情報をチェックする