2018年05月31日

光満ちた世界(5)

          (前日からの続き)
 例えば、色々な問題が・・・。皆様方の集会や
支部や、あるいは、全国を巡講なさる場合に、
色々な問題が皆様方のところへ山積みのように
くると思います。その時に、こんな大きな
問題は今まで私は経験したことがない。そんな
ことは私の手にあまる。そういう想いに皆
把われると思います。それは把われて当然で
ございます。

 けれども、事の本質は、本当に大事なつかま
なければならないことは、色々な起こって
きている現象というものは二つあって、一つは、
今私が申しました、皆様のそれぞれの想いに
よってつくられていく世界が現象に
なっていく。前にも申しました様に、天変地異
というものは、皆様の業想念というものが、
ある時ある一定の限度を越えて破れて、そして、
又、ある調和を取り戻そうとする時に、大水に
なったり、大地震になったり、この世の中には
不幸と見える事柄でもって大調和へ還ろう
とする時の運動であります。その元の元の元を
正してゆくと、我々自身の恐怖であるとか
色々な不安であるとか、明日の生活への恐れ
であるとか悲しみであるとか、大丈夫だろうか
という心であるとか、そういうものが
一人二人の間は何でもございませんけれども、
まだ小さいものですけれども、何百人何千人
何万人何億という人のその想いが積み重なった
時に、うっと爆発をしまして、それがどっと
大洪水になり、あるいは、地震になり、大火事
になり、あるいは、今、南極の氷が解けている
とか、そういう現象になっている。あれは
決してフロンガスだけの問題ではありません。
 あれは業のそういう積み重なりもございます。
 そういう想いの世界からつくられている
場合と、それから、守護の神霊がわざと置く
つまずきの石、修行への為の石という場合と
両方ございます。これは非常に難しいもので
ございまして、これを見分けるということは、
とても人間わざではなかなか出来ません。

 その時に何が一番大事になってくるか。
 色々な問題を皆様がお聞きになる時に、
あるいは、どうしても持ち込まれた時に、
判断をあおられた時に、何を基準にしてそれに
答えてゆくか、浄めてゆくか祈ってゆくか
というか、これは、神様の御心というものを
やはり大基盤においてしていただかない
ことには、やはり道をまちがってしまうことに
なるのであります。

 例えて申しますと、私の手にあまる位の苦
であっても、神様の側から見れば、この人の
この時点での修行の為に置かれたつまずきの石、
つまずきの石ではあるけれども、さらに
この人の光が輝いて、そうして、この人の
人生が深くなって、ついに天命に全く
とけ入ってしまう。そういう導きの為の
つまずきの石ということがございます。

 そこで、ただとに角、それを見分ける。
 あるいは、そういう深い智恵の言葉を
出させていただく。そこへいきます為には、
とに角お任せするんだ、私がその時に判断を
してしまうと非常な苦になります。例えば、
どちらへ行った方がいいでしょうか。右へ
行った方がいいでしょうか、左へ行った方が
いいでしょうか、というような質問。進学の
ことにしても就職のことにしても、あるいは、
思うようにならない人生という風なことに
しても、色々なことが持ち込まれて、そして、
自分の一言でその人の人生がある程度、
方向方針が決まってしまうというような場合に、
自分の言葉でもってという風に思ってしまい
ますと、責任も重くなりますし、とても
引き受けられるものではございません。

 そうではなくて、そういう色々なことと
いうのは、現象から来ている場合もあります。
 つまり、想いの世界からそれが起こって
くる場合も、つまずきの石の場合も両方
ございますけれども、しかし、いずれにしても、
それが神様の御心によって、いただき直しの
生命をさらに深くいただく為のものである
という信仰の上に立って、そうして任せきって
ですね、印をきり、あるいは、祈っていただき
統一をしていただき柏手を打って
いただきますと、おのずから深いところからの
言葉というものが、守護の神霊によって支え
られて、皆様方の唇からその言葉が出て
まいります。

 このことは一朝一夕に出来ることでは
ございませんので、大変だと思ってしまうと
これはえらいことなので、そんなことは思う
必要はありません。つまり、おろおろする
自分も、頼りないと思う自分も、色々な
自分があってよろしい訳です。その一つ一つの
自分というものをしりぞけるのではなく、
いとおしんで、ああこういう自分が
あるんだなあということを見つめて、そうして
その上で、あなた方なりにあなた方の立場で、
無理をせずに背伸びをせずに、その信仰を
深めていっていただきたい。

 ただ、物事の本質と申しますか、神様の本心
といいますか、本体と申しますか、そういう
一番はずしてはならない御心の深いところ
というのは、先程から申しておりますような
ところにございます。ですから、ここのところ
だけは、データーをまちがえて頭のすみに
おいてしまいますと、とんでもない苦に
なりますので、そこのところだけをやはり
自分の肝に銘じて、そして、祈って、出来る
ことはできる、出来ないことはできない、
出来ないところは助けていただこう、つまり、
他力と自力を融合させて、そうして、皆が
そういう難しいことばかりではなしに、私も
光の国の住人ならばあなたも光の国の住人
なのだというつもりで暮していって
いただいたら、随分とこの世の中は平和に
なっていくと思いますし、光明波動という
ものは益々広がってまいることであると
存じます。
       昭和63年8月26日
posted by wadatsumihirohime at 08:58| 祈り | 更新情報をチェックする

2018年05月30日

光満ちた世界(4)

          (前日からの続き)
 荘子に逍遙遊篇(しょうようゆうへん)
というのがございます。逍遙遊篇というのは
何かというと、ご存じの方もあるかもわかり
ませんけれども、つまり、大鳥鳳凰というのが
あって、鳳凰(ほうおう)のあの大きな鳥が
天空をかけ巡ってゆく、その姿の壮大なこと、
それを最初にうたっております。そうして、
鳳凰というのは元を正せば、北の方に大きな
海があって、そこにこんという大きな魚がいて、
その大きなこんという魚が鳳凰になったんだ
という風に、冒頭に書いてあります。で、後の
注釈者などは、これは何を言っているのかよく
分からない。非常に混沌として、大魚が
出てきたり、鳳凰が出てきたり、なんだか
気宇壮大ではあるけれども、それ以上何を
言おうとしているのか、非常に空想的な物語
であると、たいがいの人がそういうことを
申します。

 けれども、人間の智恵とか知識とかいうもの
では推しはかれない程の、深くて大きい、天空
そのものさえもおおいつくしてしまうような、
そういう絶対的な愛の存在というものが
ございまして、そして、それが、この地上に
生きている私たちも、あるいは、地上に
這っているけものたちも、すべての草木たちも、
ありとあらゆる生命の中に息づきを与えて
いるのだということ。そのことを覚えて
いただきたいと思うのであります。つまり、
我々の生命というものは、我々の想いいかんに
関わらず、憂い辛いとかいろいろなことが
ございますけれども、そういうものに関わらず、
我々の中で光へ光へと導いていく、我々を
明るい方へ明るい方へと導いてゆく。そうして
ついに、真実に何ものにも動かされない、
不動の心と私は申しましたけれども、そういう
不動の心に導かれて、そうして、光そのもの、
光一妙の世界へ連れていって下さる。そういう
ことなんです。そして、それは遠くにある
のではない。

 神様というのは、あなた方がお呼びになれば、
あなた方のすぐそばへ来て下さる。守護の
神霊たちは、お呼びになればすぐ来て下さる。
 そして、寄り添って下さる。目には見えない
かもわからない。けれども、祈りの中に神様を
呼べば、あるいは、五井先生を呼んでもですね、
すぐあなた方のそばに行ってあなた方を守り、
あなた方を支えて、そうして、光へ光へ、
明るい方へ明るい方へ導いてゆく。で、ここを
根幹といたしませんことには、闇と見える
ものを闇と見まちがえてしまいます。思い
まちがって、憂い辛い世の中のこの表面の
現象面のことだけに把われてしまって、
自分も憂い辛いそのうずに巻き込まれて
しまいます。けれども、本当に強いやさしい
真実の光の世界というものは、そういうものに
のみ込まれないものであります。そういう
ものに引きずられないものであります。
 あるいは、そういうものを労わり溶かし、
そうして、人間の色々な苦というものを
包み込みながら、さらに深い大きな神様の
愛へと導いてゆくもんであります。で、
ここをやはり覚えていただきませんことには。
          (翌日に続く)

posted by wadatsumihirohime at 09:38| 祈り | 更新情報をチェックする

2018年05月29日

光満ちた世界(3)

      (前日からの続き)    
 本当の真実の姿というのは、それでは何か
といえば、それはどんな時にも動かされない、
どんな時にも迷うことがない、疑う余地のない
神様の愛の光というもの。例えば、どんな業の
中にあっても、その業をゆるやかに、愛情を
もって消してゆきながら、ついに、その業の
闇をも光に変えてゆく、そういう大愛。それが
真実の光の世界であります。で、この真実の
光の世界というものを、実は私たちはそれぞれの
心の中にもっておりまして、本当はこれが
原動力になって私たちが生きてゆくことが出来る
ということであります。ですから、そこへ
ずっと気持ちを集中し心を集中し、祈りを集中
してゆけばですね、いつも私が申しましたけど、
一分キリスト一分釈迦一分老子になることが
できる。老子が無為と申しましたのは、何も
しないということではありません。
 あるがままの自己というものをほがらかに
認めて、そうして、そのほがらかな自己という
ものをさらにポーンと投げ出して、笑顔
でもってそれを見つめていると、そこから光
というものが見えてくる。光以外に見えてくる
ものはない。そういう世界であります。
 そういう世界に本当は人間は遊ぶことが
できる。
          (翌日に続く)


posted by wadatsumihirohime at 09:44| 祈り | 更新情報をチェックする