2018年06月30日

神の子について(8)

        (前日からの続き)
平和というのは、ただ単に事なかれ主義
ではないんですよ。イエスが言ったでしょ、
私がこの地上に来たのは、兄弟を分かれ
させて家を分かれさせて、争いを起こさせる
ためだ、剣を投じるために地上に来たんだと
いうふうなことを言います。
何という言葉だと皆思いますよ。
肉体もってる人はね。
イエスがそんな人だったらついていけない
と想いますよ。でもそうじゃないんです。
いろんな事が起こるんです。
本当に真理に従おうとすれば。
だけど、私たちは神様に任せてるんだからね、
お願いしてあるんだから、預けてるんだから、
そこからの祈りであれば、絶対に私たちは
間違った方向へ行きっこないんだ、
そういう想い、信仰、そういうものをもって
進んでゆく時に、いつの間にか分かれた家が
握手するんですよ。
気の合わなかった人と挨拶ができるように
なるんですよ。一旦分かれさせるかも
しれないよ。一旦辛いことをね、神様という
のは降ろすかもしれないよ。
だけども、決して分かれさせたままとか、
喧嘩をさせたままとかね、そういうことは
絶対にないんです。
どこかで結んで下さるんです。

光を結ぶのが神様なんですからね。
闇を降ろすのが神様じゃないんだから。
闇の問屋じゃないんです。
光の問屋なんだよ。神様というのはね。
だから、そこに信をおかなきゃ
何をおくんですか。
そこへ深く入ってかなきゃ何に入って
いくんですか。
そこを信じてもらって、そうして道を
説いてもらわないことには、神様の光が
途中で止まっちゃいますよ。
          
信ずるということは、ただあなた任せじゃ
ないんです。
私の信仰は駄目だけど、あの人の信仰は
すごいから、あの人の信仰の話を聞いたら
少しは私の信仰がって、そりゃあ確かに
そうだけど、その人にいつまでも引っぱって
もらってる信仰じゃないんですよ。
その人に開いてもらって、そして、自分でも
驚くような力が出て、神様ありがとうございます
と言えた時に、あなた方が輝くんだよね。
その辺のことをね、きっちりと腹の中に入れて、
そうして、五井先生のことも神様のことも、
向こうの世界のこともこの世のことも、
いろんなことを思って、説いて、祈って
やっていかなきゃ。
我々の中の本心開いて下さるのは神様なんです。
我々じゃないんです。
だから、任せるというのは、私がさっき
あなた任せと言ったのはね、人に頼っちゃ
いかんということです。
人に頼る前に神様に頼らなきゃ。

人というものはね、自分も含めて我が
ありますよ。想いがありますよ。都合の悪い
ことはやっぱり避けて通りたい想いがある。
皆そうでしょう。だから、そういう人を
頼んだって、頼みきれるもんじゃないんです。
皆弱いんだから。信頼関係をこわせと
いうんじゃないんですよ。皆合い和して
生きていかなきゃならないの。生命を尊敬
していかなきゃならないの。けれども、
そういう意味じゃない。

やはり、朽ちることのない生命というのは
神様にしかない。裏切られない愛という
ものも神様にしかないんです。我々は
そこから愛情をもらってる、光をもらってる
訳でしょ。だから、そこへ帰っていかなきゃ
どうするんですか。そこへ信をおいて初めて
深く祈ることが出来る。そこを基盤に
しなかったら、誰々先生の言うことを基盤に
したら駄目なんです。私だって、私が
喋ってると思ってない。私は場所なんだと
さっきも言ったけども、本当に私が
喋ってるんじゃないんです。神様の流れの
その光が来て、奥深いところから光が来て、
私が喋らせてもらってるんですよ。
 五井先生が偉いとか何とかと言うけれども、
そうじゃないんですよ。本当は、大きな深い
働きというものは、底知れない神様の愛と
祈りと調和と、そういう皆を平等に愛する心、
そこから出るんです。みんなその宝を
持ってるんです。だからしっかりして下さい。
       昭和63年8月26日
posted by wadatsumihirohime at 07:39| 祈り | 更新情報をチェックする

2018年06月29日

神の子について(7)

         (前日からの続き)
 本心の座というものは、そういうもんじゃ
ない。本心の座というものは、そこも全部
つき抜けて、空になって溶けてね、解放
されて、明るくなる、そういう座が本心の座
ですね。それをやっぱり思わなければ。
 それを修行してゆくのがこの世の中の修行
です。そこを目指してゆくのが祈りですね。
 さっきも言ったように、だから、祈りと
いうのはね、何でも放り込んでも
いいんですよ。色々言ってもいいんですよ。
 あれが欲しいこれが欲しいと、いろいろ
言っても構わない。ただ構わないけど、
絶対に、神様がそれをどんな風に叶えるかと
いうのは、そこのところは任せて
しまわないと。私達の想い描いたことからは、
うんとかけ離れた答えが返ってくる時が
やっぱりあるんですね。

 その時に、どうしたら神様から離れないで、
祈ってゆけるかというのが、これが人間に
とってはものすごい難題なんです。私と
神様の祈りだけじゃあ、とてもじゃないけど
やっていけない。だから、世界平和の祈りが
あって、神の子人間というね、生長の家の
ああいうものをずっと噛み砕いて、そうして、
いい所だけを、透き通った所だけをとって、
無理のないように、背伸びのないように、
本質だけをとってね皆に教えた。その平和の
祈りがあるんですよ。

 だから、業だって我だってね、いろんな
人間が出していく余分な想いだって、否定は
しません。だけども、そのいろんな我の上に
あぐらをかいて、業の上にあぐらをかいて、
弱いから仕方がないんだじゃあやっぱりね、
精進ということは出来ないんです。釈迦が
死ぬ時に、汝ら比丘よ精進せよと
言ったでしょ。我々は我々の本質を知って、
その本心の座に近づくように、光に近づく
ように、一瞬間でも長く光になる為に、我々
自身の為にも、他の人たちの為にも、光に
なって動くことが出来るように、はたを
楽にすることが出来るように、働くという
ことはそういうことですよね。愛をもって
はたを楽にする。その為に祈るんです。
 その為に光を望むんです。

 その事をおもい間違えしないで。決して
変な選民意識が神の子じゃありません。皆
平等に神の子なんです。だから、神の子が
神の子に呼びかけるんですよ。例えどんなに
腹立つ相手だって神の子なんです。
 あなた方が道で会って、ああこの人は
本当にいやだと思えば、ちょっと道をさけて
会わないようにしようと思いますよ。
 だけども、そこを押してね、相手が
知らん顔をしても何をしても、やっぱり、
おはようございますといって、それをずっと
続けてごらんなさいな。やっぱりむこうも
お早ようございますと言うから。そこをね、
いやな人だから挨拶するのをやめようとか、
この子はいじわるそうだからちょっとさけて
通ろうとか、そう思っちゃうとね、もう
いじわるなその子供しか見えてこない。
 その人しか見えてこない。それは、自分の
中でかってにその人の生命を判断して測って
やってることですよね。そんなもんじゃ
ないんです。それがその人の本質だと
思ったら大間違いですね。

 それは、祈りによってそういう想いという
のは消していただけるんだから、出たら、
ああ消えてゆく姿だと思いながらね、非難
されてもね、中傷されても意地悪されても、
明るい生命の源である神様が我々を
受けとって下さるんだからということを
信じて、信じ抜いてですね、私達は生きて
ゆかないと、とても自分を狭くしてゆく
ことになる。世界平和の祈りが、自分だけの
平和の祈りになっちゃう。
           (翌日に続く)

posted by wadatsumihirohime at 09:55| 祈り | 更新情報をチェックする

2018年06月28日

神の子について(6)

       (前日からの続き)
 決してね、才能とか力とか個性とか、
そういうものを否定はしません。それは
神様から送られて来た贈り物なんだから、
それはそれでいいんです。だけれども、
自分の力でもってこれができたとかね、
あの人の我を押さえつけるのに往生したとか、
そう想っちゃうと後で苦しくなりますよ。
 皆同じ生命なんですね。だから、さっき
言ったけども、悪口言われて、やっぱり
ありがとうございます。足を踏まれて
ありがとうございます。と言えるところまで
自分を精進させていく。できるできないは
問題じゃないんです。そういうふうに言える
自分をいつか出して下さい。何生かかっても
出して下さい。そのために祈らせて下さい。
 そういうふうに想うこと。そういうふうに
祈ること。それを目指すことね。それが
我々の領土を広くしてゆく。神の子の光を
深くしてゆく。輝かしていくということ
なんですね。
 皆に仕えるんですよ。皆に奉仕するんです。
 我々の生命というものはね、我々だけの
もんじゃない。皆のもんですよ。世界人類の、
人のためのもんでしょ。

 だから、どこでどんなふうに私たちは
使われてゆくか分からないんです。使って
もらえるか分からないんです。それをね、
私はこういうふうに生きたいんです。
こういうふうに叶えて下さいと、そりゃあ
幾分かありますよ。
 全部神様事で、神様の言うまんまなんて
いったら、もう皆パニックになっちゃう
からね。そこのところはちゃあんと
守護霊さんだって守護神さんだって、
きっちりと分かってます。ちゃんとその辺は、
採算がとれてるんですね。

 だけど、決しておもい間違いをしては
いけないのは、我々の生命というものは、
神様から分かれて来ているけれども、しかし、
だからといって、高慢になって、我々は
神様が付いているから、何を言ったって業は
消えるんだ、何をしたって我は受けとって
もらえるんだと思って、努力するという
ことを忘れたら、これはもうとてつもない
ことなんです。
             (翌日に続く)


posted by wadatsumihirohime at 11:42| 祈り | 更新情報をチェックする