2016年12月31日

愛のはたらきについて

 私はマイクの前に立って、こうやって
皆さんの顔を見ながら、何を話そうかとか、
今日はこれについて話そうかとか、そういう
ことは一切考えていないのであります。
 だから、質問をどうぞというのは、質問を
きっかけにして、私は、神様のこと、神様が
どんなに人間を愛しているかということ。
 で実は、神様の愛の働きによって人間が
生かされているということを伝える。
 そういう場所に私がなるという
ことなんであります。

 だからいつか申しました様に、釈迦が来る
こともあるし、キリストが来ることもあるし、
老子が来ることもあるし、色々な人が
私の体に降りて来て、そうして、その方面の
ことをしゃべってそして又出てゆく。だから、
私の体というのはカラッポなんだとね。私は、
生命(いのち)はもう神様の中へ帰しました。
 帰した時に、とに角まあキリスト教で言えば、
“御心のままになさしめたまえ“というあの
主の祈りの中の、ああいう気持ちになって。
 自分がなったんじゃない、何か奥の方が
なって、そうして、そういう活動をなにかしら
させていただける様になって、今日になって、
今こうして喋べっている訳ですけれども。私
というものは一切無いんですね。何があるか
というと、神様の愛がある。それだけ
なんです。その愛というものは、私の為
だけにあるんじゃなくて、これは実は、我々
人間全体の為にある。
 この地球世界の自然とか、色んなものが
色んな形で生きていますけれども、それこそ、
生きとし生けるものの有りのままの姿を
そのまま生かして、さながらに生かして、
その生命(いのち)が完うする様にというので、
その愛が注がれている。その愛の姿という
ものを、皆が、ああそうだなと思って納得して
感動して、そうして、それぞれが静かな想いに
なって、神様というものにねその想いをはせた
時に、皆が神の子なんだということになって
いきますでしよ。

 そして次には、他愛ですね。他を
愛すること。他を愛することというのは、
自分のまわりを確認できることなんですね。
 自分のまわり、自分の生命が何によって
支えられて、まわりの人の色んな親切だとか、
色んな想いだとか思いやりだとか、そういう
ものによって生きてる。生かされている
ということを確認する。この現実の
世の中でね。そして、自愛というのは、
そういう感謝のおもいを今度自分が確認して、
そうして、じゃあ何をすればいいかという
ことになると、自分を本当の意味で
労わってね、そして生きてゆく。その自分を
本当に労わるということの中には、人間の心
には、色んな姿があります。見たくない、
こんな自分は確認したくない。こんな自分は
見つめたくないという想いがありますよね。
 ですけれども、それをずっと見て、ああ
こういうやり切れないものを人間は
持ってるんだな。そこが自分の中で確認
できれば、人間というものは高められて
ゆく訳。

 人間というものは弱いですから、何か
あれば、神様仏様とすがるけれども、何も
なかったらやっぱり、そっちの方へ想いが
行かない。だから、色んな祈り言葉がある
というのは、その祈り言葉を階段にしてね、
そうして、自分の本当いえば姿、自分は
何なんだということを突き詰めて考え、
そうして又知らされる。その為に祈りが
ある。そうすると、我々を生かしめている
ものは神の愛でありますから、その神の愛
というものを、神様のというものをとって
しまっても、神様の愛が人間の中に働いて、
そして、我々が生きているとすれば、この
愛の働きというものはどういうものかという
ことになると、これは森羅万象すべてに
わたっているということになってしまうと、
説明のしようもないものでありますけれども。

 とに角、愛というものは何かというと、
まず一つには、自愛ですね。自分を愛する
ことですね。想いを確認して、それを
抱きしめるんじゃなくって、それをパーッと
祈りの中へ放すわけです。祈りの中へ
入れちゃうと、それはどんなに業に満ちた
ものでも、あるいは闇というものがあっても、
それは光になりますから、祈りの中へ
投げ入れちゃってね、あるいは、神様、
五井先生といって投げ入れてしまったらですね、
それは業は業でなくなるんですね。そこで
消えてゆく訳ですね。
 そういう意味で、自分を愛する、自分を
確認する、自分を労わる、ということは、
自分の中にある人間の色々な心の姿を
一つ一つ取り出して、そして浄めて、
浄める為に祈りをして、そのおもいを
まわりに、その祈りをまわりに巡らして
ゆくと。そういうことがある訳です。それが
一つの愛というものの実相なわけですね。

 愛というものは限りがありません。ここ
までが愛でこっからが愛じゃないとか、ここ
までは愛情だけれどもこっから一歩は愛じゃ
ないとか、そんなことはありません。限りが
なくって尽きるところがなくって、その
尽きるところがないものに支えられている
ということがわかりますと、人間はどう
なってゆくかというと、もうとに角、自分の
生命(いのち)というものは窮まりが
ないんだということに、だんだん気がついて
ゆく訳です。なぜかというと、人間を支えて
いるものが神様の愛で、しかも私共がいつも
申し上げておりますように、人間の生命
というものは肉体だけのものではありません。
 貫いてずっとむこうの世界まで行っても
まだまだ続いてゆくのが生命ですから、
つまり永遠の生命ですから。
 その生命を貫いている愛というものが
尽きるということがなくって、生命という
ものも尽きるということがないとすれば、
じゃあ人間の働きというものは、そこに
気がついてみると、そこに気がついてゆくと、
本当に充実しきった想いになってゆく訳
ですね。何があっても壊れることはない。
 絶やされることはない種、生命の種という
ものを自分の中に持ってる。ね、持たされて
いる。あるいはいただいてるということに
気がつくとですね、こんな喜びはない訳ですね。
 そうすると、自然に自分の気持ちが
落ち着いてきて、今色んなことがあるにしても、
自分は尽きることのないものを貰ってるんだ、
神様から貰ってるんだ。神様の愛というのは
無限なんだということになってきますと、
だんだん、荒い肉体を囲んでた業の波動と
いうものが、祈りによって浄められてきまして、
気がついてゆくに従って、荒いはずの波動が
細かになっています。
 そして、細かになってきて、だんだん色んな
人の色んな想い、やりきれない想いだけじゃ
なくって、心を求めている、人を求めている、
淋しがってる、そういう人の想いに人間という
ものは気がつくようになってまいります。
 そうして気がついて、それに感応して
関わりをもって接していきますと、そこに
何が生まれるかというと、そこに愛念という
ものが生まれてまいりますね。そうして、
それがどんなに細やかのものであっても、
その間に働くものというのは、深いものが
ございますから、そこで生まれてくるものは
本当に光明に満ちたもの、光に満ちたもの、
愛に満ちたものになってゆく訳です。
 そんな風にして実は、人間というものは
気がつかない内に、この世の中で、一歩でも
二歩でも進歩をしよう進化をしようといって、
歩みを止めては本当はいないものなのですね。

 色々な所で紛争がある。色々なところで
戦争が絶えない。現象だけをみてると、
こんなんで世界は平和になるんだろうか、
どうなんだろうかと思う。思うけれども、
それは自分の気持ちの感情の部分が
思うんであって、自分の本体そのものは、
皆さんの本体そのものは、世界が完全に
平和になるということを知って生まれて
きている生命なんですね。そうして、
白光真宏会にきて私に会って、魂そのものは
それを覚知してる本体なんです。ですから、
そこのところは全然動かされていないから、
何があろうと、この世界というものは平和に
なってゆくし、愛に満ちて調和になってゆく
ということはわかってますんでね。そこに
向かって我々自身が生きているということを
確認しますとね、随分我々というものは
落ち着くものなんですね、そうしてその働き
というものも、だんだんだんだん自分の為の
働きというよりもですね、他者の為の、
他者の為から自分のまわりの世界、まわりの
世界というとだんだん広がって行って、
世界人類になり、世界人類からいうと今度
宇宙人類になり、という風に広がってゆく
訳です。

 我々の住んでる場所だとか、選んだ
ところは狭くるしくって、色んな制約が
ありますけれども、我々の本体そのものは
神様と直結しておりまして、その神様の愛
というものは無限であるということになって
きますと、我々が器として要求されて、
あるいは動かしていただくその場所も無限
である。
 ね、霊界神界とつながっていて、天の私と
地の私がそれこそつらなっていて、一体と
なっていて、そこで働いている。そういう
生命なんだ。そういう働きを我々はこれから
してゆくんであるし、又今しているんだ
ということ。そしてそういうところに、
少なくとも想いをはせて祈りをしてゆく
ときに、色々な人の想いが思いやりという
ものがこちらへ伝わってきて、そうして
自分の中の色んな想念の想いの掃除という
ものができる。

 色んなことを申しましたけれども、自分を
まず高めてゆく。高めるというのも、ただ
単に知識を高めるとか智恵を磨くとかという
ことだけでなくて、自分の中の本心、霊性
というものを磨いてゆく、肉体だけではない、
自分の生命というものに目をそそいで生きて
ゆく。そうしてゆく内に、だんだんだんだん
愛というものが深まっていって、そして、愛
だけじゃなくって、愛につれて働いてゆく
生命そのものも、今度は愛を呼んで
くれる様になるんですね。

 それは何かと言うと、例えば、この
世の中で働くということは、生きる為には
お金を得るということです。そのお金にも
愛憎がこもってくる訳ですね。つまり、
苦しいばっかりだと苦しい想いがお金の中に
こもっちゃう訳です。苦しいが来るんです。
 そうすると、お金が入って来ても苦しい、
入って来なくっても苦しいという状態が
くるんですね。あるいは不安とか不平とか
不満とかね。そういう想いが積もり積もった
上で、例えばお金を受けとると、そのお金は
ちっとも嬉しくないでしょ。つまり、お金が
入って来ても自分の心が自由じゃないね。
 想いが自由じゃない。何か解き放たれない。
 そういう中でお金を受け取ってもね、その
お金は死んでるんですね。お金ってものは、
この世の中を生きてゆく一つの手段であって
絶対的なもんじゃありません。肉体を養う為の
ものですけれども、それでもこの現象世界の
中の一つ一つのものを尋ねてゆけば、全部
それは生命体です。本来の生命に帰って
ゆくもんですから、やはり物質世界のもの
であっても、そこへ向ける愛念というものが
浅ければ、つらい想いの方が強ければ、
それはそれだけ現象なんだけれども、
その現象を通して自分の中の本心開発が鈍る
ことになる訳ですね。 
 だから、受けとるもの、暮してゆく為に
受け取るお金にしろ人にしろ、関わってゆく
関わり方にしろ、ここでどういう働きを
しなきゃいけないか、つまり自分がどう
接してゆかなきゃならないかということは、
祈りをずうっと深くしてゆくと、自然自然に
その自分の中の想いがですね、掃除をされて
いって、そうしていつの間にかしら、人に
対してもやさしい気持ちになって和らいだ
気持ちになって、一つ二つは還せるように
なってく。最初から何も完全にこうしなきゃ
なんないということはないんです。そんな
ことは考える必要ないんですよ。ちっとも
考える必要なくってね。私はもうこんな風に
又言い返しをしてしまった。こんな風に又
主人に口答えをしてしまった。ね、奥さんに
又こんな風に思いやりの無いことを
言っちゃった。そりゃあ夫婦だったら
夫婦喧嘩もするでしょう。親子喧嘩もある
でしょう。ね、それから同僚だって、本当に
虫が好かない奴もいればね。会の中だって、
いつもいつもニコニコ顔という訳じゃない
だろうしね。人間の集団なんだから。
 それでもそれを浄めてね、そうして生きて
いく術ということになれば何かと言えば、
それは祈りなんですね。祈りの中に光が
あるし、祈りの中に愛があるし、そうして
祈り一念になって、自分の中にある光明
というものを、確認をその祈りの中で
奥の体がしていって、いつのまにかしら
やってゆくと、そういう大きな深い愛の
生命の中へ自分がさーっと入ってゆける様に
なるんです。

 自分の力がないから非力だから、自分は
こんな大きな役目は出来ないとかね、何とか
思って自分を閉じてる間はこれは我
なんですね。そんなものは、人間に力がない
ということはむこうが百も承知です。

 肉体人間そのままの、我の人間そのままの
生命だったら、神様は使やあしません。そん
なものは。そうじゃなくって、肉体人間の
奥の生かしてるものは何かといったら、
神様の愛なんだから、その神様の愛、
自分のね、生命を分けた光を分けた光の
一筋の光線の一筋一筋のいとしい生命を
神様が抱きとって、そうして働きをさせよう
というんだから。その時にあなた方が
どんな風に自分たちが非力だと考えようと
何しようと、そりゃあむこうの知ったこっちゃ
ないんですね。その時にはまかせなきゃ
いけない。任せきった時には、自分で思いも
かけない働きというものが出てくる訳
なんです。それは任せ切った時に出てくる訳
なんです。任せ切るっていうのも、自分で
任せよう任せようとかね。任せなきゃとかね、
そんなこと考える必要ないんです。皆
向こう側が下さる働きなんだから。自分が
ゼロなんですね。あるいはゼロ以下なんですよ。

 肉体人間としてみればね、何も出来る
もんじゃない。凡夫なんだね。親鸞が
言ったように凡夫なんです。凡夫なんだけども
任せきってね、南無阿弥陀仏なら南無阿弥陀仏、
世界人類が平和でありますようになら平和で
ありますようにの祈りの中に自分というのを
入れてしまうと、そこで、自分の中へ普段は
奥の方へ入らされている光明というものが
燦然と輝き出してきて、祈りになって、一体
になって、そしていつの間にか神様と一緒に
なって働ける。そういう生命というものを
我々は種として、生命の種として自分の中に
持ってるんだということね。それを忘れて
しまったら、これは卑下高慢になるんですね。

 生きてゆくってことは苦しいことです。
 生活というのは大事なんです。だけれども、
その生活とか生命とかそういうものを
支えてるものは何かといったら、神様の愛
だから、その神様の愛に入るということは、
現実をバカにすることでもなきゃ何でも
ないんです。その本来の生命にかえって、
神様に任せきった時に、神様がさーっと
救いあげるし、神様が働かせるし、その時に
自分だけの働きじゃない、まわりの人だけの
働きじゃない、もっと深いもっと大きな働き
というものを、愛というものは
なさしめるんです。なぜならば、それは
神様から出ているもんであるから。そして、
我々も神様の生命一筋であるから、それが
出来なきゃうそなんです。
          昭和63年5月5日
             五井昌久
posted by wadatsumihirohime at 10:51| 祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする