2017年02月28日

かえし受けるいのち

 私どものいのちは、日々神様からの光を
いただいて保たれているのでありますが
自分自身を絶えずあたらしくするために
祈りがあり、一瞬一瞬に、古い自分を返し
つづけているのだということを、考えて
みたいと思うのであります。

 一体自分とは何でありましょう。自分とは
肉体だと思う人があるかも知れない。
 あるいは又、心だと思う人があるかも
知れない。

 では、私は、何と思っているかをここで
申します。

 自分とはいのちであります。いのち
そのものであります。神の光を受け、霊要素
霊気を呼吸して生きるのが自分自身、人間
そのものなのであります。

 人間というものは、こんなちっぽけな
肉体の中に閉じこめられているものでは
ありません。人間の真性は、天地宇宙を
つらぬいて、神の愛と一体となっているもの
であります。

 神の光に抱かれ、宇宙神の愛とゆるしの
大光明の一筋となって永遠に生きゆく
相(すがた)、それが、いのちという
ものの真実の相なのであります。

 昔々、まだ、人間が、空気のように霊気を
呼吸し、神の光を、よろこんで身に浴びて
おりました頃、人間と神との交流、人間と
守護の神霊との交流というものは、誠に
畏れを持ちながら、和に満ちていたので
あります。

 いのちというものの朗らかさ、永遠に
活きづく本心そのもののかがやきが、神や
守護の神霊との交流のなかに、自らを突き
動かしていることを、人間達は知って
いたのです。

 実に自然に、いのちというものが、つねに
あたらしくされ、日々瞬々いただきなおす
ものであることを、本心本体そして心が
知っていたのであります。

 祈りの言葉というものも、ひびき
そのままの交流であり、交歓でありましたが
つねに自らのいのちのかえるべきところが
神であることをよろこびながらの祈り
でありました。こうしたすがたは、人間
本来のものであり、今、宇宙の星々に
宇宙神の愛をうけて生きている私どもの
すぐれた先達、宇宙人類達は、さながら
こういう心なのであります。

 いのちの流れというものはとどまることを
知りません。そしてそれは、肉体などという
私ども肉体人間の眼を超えた、霊妙な
ひびきを持つ光そのものの光体を貫き、遂に
宇宙神のみふところに流れ込んでいるもの
なのであります。

 つねに新しくされるということは、古い
自分を脱ぎ捨てているということであります
けれども、これが、この現世における「死」
とおなじようにとらえられるならば、それは
全くことなった死なのであります。

 本来、いのちというものは、ずっと、神の
愛のもとにみちびかれて絶えることのない
流れでありますので、その節目節目における
「死」は、一つの仕事、修行をやりおえた
私どもが、さらに素直に神様の光のなかに
生きるために、また、より深くより広い
人類の進化のために、一区切りがついた
そして、次はここだという本心本体への
覚醒を指すのであります。

 私どもは、すきとおるような神の愛と
神への愛を受け、又ささげるために
この地上に、また宇宙に連なる存在なので
ありますが、こうした光体から、遂に神の
光の一筋となるために、永遠のいのちを
受けているのであり、祈り─世界平和の
祈りは、各自に分けられたこのいのちの
かがやきを、いやが上にもかがやかすので
あります。

 こうした人間のいのち、自分自身は
かがやく神の光であり、いのちであると
祈りのうちに、この宣言を神への最上の
そなえ物とする時、辺りはよろこびの光に
みちるのです。
 どうか、果てしなく円環しつづける
いのちをみつめるためにも、一切を
消えてゆく姿と観じ切る、とらわれを放つ
神への信をかためていただきたいもの
であります。
      昭和61年12月16日 夜
          五井 昌久
posted by wadatsumihirohime at 09:32| 祈り | 更新情報をチェックする