2018年06月06日

五井先生と呼んで下さい(6)

        (前日からの続き)      
 神様の御心というものは深くて暖かくって
本当はやわらかい。北風と太陽の話じゃ
ないけど、北風が吹いたって旅人の衣は
ずっと寒いから脱ぎっ放しにできない、
むしろ、どんな風が吹いてもしがみついた
でしょう。だけど、太陽の場合はポカポカ
照ったから、サーッと脱いじゃったね。
 あれと一緒なんです。どんなものも
ゆるしてね、どんなものも溶かす。それが
太陽ね、それが神様の愛なんですよ。
 そういうふるさとをあなた方は
もってるわけ、自分の中にね。それを日常の
慌しい中ではね、ここにふるさとがあると
思えたってなかなか思えないから、だから、
祈るわけでしょ。で、祈りの中でね
日々瞬々の想いの掃除をしてもらって、
そうして、そのひびきにのって統一して
もらってねえ、もらってというのは、私が
あなた方にしてもらうんですよ。あなた方が
五井先生にしてもらうんじゃないのよ。
 一緒に祈って、祈りの階段をのぼって
もらって、お互いに神様の大生命の中に
入ってゆくんです。そのお手伝いを私がして
いるんです。だから、安心してどうぞ私の
ところへ色々もってきて下すって結構
ですから。

 やっぱり人間というものは、そんな窮屈な
ことを目指すんじゃない。祈りというものは
窮屈なことを目指すんじゃない。
 こうしなければならぬというものじゃない
からね。人間の中の想いの枠をはずしてゆく。
 世界を広げてゆく、光の世界の住人に
なってゆくということは、自分を素直に
朗らかにひろやかに深くね、広々とさせる
ことですよ。

 しかし、人間にはそれぞれの立場という
ものがあってね、立場によって出てくる
言葉ってあるんですよ。私は前に妙好人
ということを言いましたよね。白光に寄って
くる人は特別な人は来なくていいと
言いましたよ。妙好人みたいな人が集まりゃ
いいって。それは何も妙好人を理想にした訳
じゃない。けれども、神仏へのあるいは
大生命へのものすごく素直な祈りがあり
希求がある。そういう人をやはり理想に
したい。他の、社会的な地位だとか立場
だとか、そういうものは一切いらない。
 そういうものはむしろ宗教にとっては
本当に雑なものになるんです。やっぱり、
すっきりと生き通しの生命になってゆく為
には、自分の中のそういう雑物をのけてゆく、
その為に祈りがあるわけですから。

 ですけれどもね、さっき言いかけました
ように立場があってねえ。例えば、高橋君
なんかは、この人善人ですかって問いかけて
くればねえ、ああそうだよと答えなきゃ
しょうがないし。で、善人だけがいいわけ
でもないんです。善人ということはいいこと
だけども、ある時にはいいけども、
ある時には大変だろうなあという時が
あります。例えば、バカ正直という言葉が
ありましょ。正直ということはいいけれども、
何でもかんでも言ってしまうということが、
その人の人生にとっても他の人の人生に
とっても良いことか悪いことかといったら、
何でもかんでもつつみ隠さず自分の気持ちを
相手にさらっと言っちゃうのはね、これは
自分はある時すっきりするかもしれない
けれども、それによって相手が傷つくという
こともある。だから、その立場立場に
よってね、ある時ある人が善人に見える
こともある。ある時ある人がずるく見える
時もある。それは、その人がその人の生きて
きた環境とか色んなものによって、その人の
一面を、ああずるいなあとかああいい人
だなあとか感じる。その感応によって
こっちに聞いてくるから、それをまず一たん
認めてやらないといけない訳ですよ。善人
なら善人、ずるい人ならずるい人、だけど
放っとくとね、とてもじゃないけどすっきり
いい生命にはなっていかない。

 我々の目指してゆくところは、そういう
色んな面を持っていても、その生命を
さながらに明るく朗らかにしてゆくという
ことですから、そこへ向かってゆかなきゃ
いけないわけですからねえ。だから、私達は
その立場立場によって、見える感じる想える
ということをまず認めた上でね、その上で
さらにその人の成長に従って、ああ
ここまでならこの人行けるなというところ
まで、一段一段いっしょに階段を登ってやる
ということ。降りて行ってやるということね。
 それが大事なんです。上からね、あなた
こうしなきゃいけませんよ、こうすべき
ですよ、という風に言ってしまいますとね、
それがしたくとも出来ないという人が沢山
いるわけですよ。おもいは一杯あるけれども
弱くって出来ない、ありますよ。だから、
それがいけないと言ってしまうと、もう
その人全体を否定することになる。禁止する
ことになる。おまえがいけないということに
なる。

 だけど、神様というものは、おまえは
いけないはないんです。おまえは可愛い
けれど、おまえは駄目だ、おまえは良い子
だけど、おまえは悪い子だ、それは全く
ないんですよ、神様の側からすれば。だから、
それぞれその時々に応じてね、人間の我々の
目から見ますとね、ああしょうがない人
だなあ、やっかいな人だなあ、こんな
つまんない人がいるかしら、もう色々
言ったって何にもわからないような・・・と
思いますよ、あせりますよ。だけども、
やっぱりその人はその人なりに悟る時期、
分かる時期気づく時期、あるいは、傷ついて
一歩進む時期、色々あるわけね。そこで、
へたに我々が裁断をしてねえ、この人は駄目
だとか、この人を標準にして話をしよう
とかねえ、そういうことは言っちゃあ
いけないし想っちゃあいけない。何故なら、
神様というものはね、そういう標準を何も
もっていない無限定なんですよ。神様という
ものは、無限定な愛なんですよね。その愛
というものは測り知れない、測るものは
ないんです。そういうものから我々の生命
というものは出てきているんですね。
         (翌日に続く)

posted by wadatsumihirohime at 10:16| 祈り | 更新情報をチェックする