2018年06月09日

神の愛念について(2)

         (前日からの続き)
 今、何でもって生きていったらいいか
分からないというような生きにくい世の中
ですよね。不安がある、色んなことが
起こってくる。事故はあるし、災害は
あるし、今年みたいに天候が不順じゃあ
とか言ってるけれども、実際に毎日毎日、
今もどこかで大雨が降り雷が鳴って、雷に
打たれて死ぬ人だってある。雨に流されて
家がどっかへいっちゃう人もある。
 つぶれて下敷きになってけがをする人や
なくなっちゃう人がある。そういう不浄の
世の中というもの、これを見ていると、
何を頼りにして何をよりどころにして
生きていったらいいか分からないという
不安がつきあげてくる。というのがこの
世の中の本当のところであります。

 で、そういうところをふまえて、私は
何を申し上げるかというと、我々という
ものは、常に神様の愛によって生きて
いるのであるということ。これを忘れて
しまっては困るんです。ここが本道
なんです。なくなったり何だかんだ
しているが、それが何で神様の愛なんだと、
肉体をもつ人間は思うけれども、しかし、
神様の愛というのはね、あなた方
一人一人の天命を抱きとって、この世だけ
じゃなくてずっと深い天命を愛して、
そうして、もちろん、あなた方という
一人一人を愛して、そこを見つめての光を
むこうから流し続けていらっしゃる。
 その愛なんですね。だから、個人の
小さな喜びもささやかな喜びも、
良かったねといってむこうから光を送って
下さるけれども、しかし、一人の人間の
生き死にが問題ではないというところに
神様の愛というものがあるんです。

 こう言うと、非常に無情のように
思うけれどもね、そうじゃない。つまり、
本当に人間の姿、そして、神様の愛という
ものを知って行く時には、肉体の死とか、
いくつで死んだとか、若くて死んで
しまってかわいそうだとか、そういうこと
というのは何となく問題にならなく
なってくる。私なんかは、むこうの方から
こっちを今見てますでしょ。そうしますと、
本当にこっちもむこうもないんですよね。
 むこうの世界もこっちの世界も、
ずうっと連なっている。ただ、あなた方の
場合は、肉体の肉眼という目でもって
みているから、あっちの世界が見えて
こないだけで。

 しかし、そういう把われも何もかも
捨ててしまってね、祈り一念、世界平和の
祈り一念になって、五井先生、神様、
お願いしますと。世界平和の祈りで教義を
唱える。その教義を唱えるということは
どういうことかというと、つまり、無に
なって、自分もなく人もなく、自分が祈る
ということも忘れて、その大きな流れの
中へ入ってしまえば、あなた方の肉体が、
その時、肉体をもったまま肉体が
消えるんですよ。肉体の波が消えて、
そうして、自分がここにいるという
ことも忘れて、ただ、祈りの光と一緒に
なっていく。そういうものなんですね。
 本来そういうものなんです。それは、
どんな赤ん坊であっても子供であっても、
あるいは、老人であっても、神様を
知らないと思っている様な人であっても、
あれは無神論者だと皆が非難するような
人であってもね、そのスイッチという
ものはもってるんです。
          (翌日に続く)

posted by wadatsumihirohime at 08:30| 祈り | 更新情報をチェックする