2018年06月11日

神の愛念について(4)

         (前日からの続き)
 ところが、やっぱり人間というのは弱い
でしょう。斉藤さんが、おれがおれが
というそのがを取ってと書いたでしょ。
 そのが(我)を取ってというけども、
なかなか我というものはなくならないん
ですよ。だから、世界平和の祈りがある。
 その我をもって、すいません任せ切れ
ない私ですけれども、どうぞ世界平和の
祈りの中で、祈りのエレベーターの中で、
五井先生の柏手によって口笛によって、
あるいは霊団の皆さんの光によって、
神様の愛によって、そうして、この我を
少しでも少なくして下さい、消して下さい
と言って祈る。その時には、少なくして
欲しいと想って祈っていても、こっちから
見ていれば、もう空っぽになってるんです
皆さんは。だけども、皆私なんてとか私
なんかが祈ったってとか、そういう想いが
しみついちゃってるからね、だから
出来ないんですよね。空っぽになっている
と想えないんですね。

 昌美とか裕夫君とか真宏会が今一所懸命
やっている、それというのは、皆がね、
空っぽになってる、つまり、任せて
しまうと器になれるんだということね。
 それは、私がやってるとか何とか想って
しまうと、苦しくってなれないんですね。
 肉体の人間というものは、余分なものを
地球上に降りてから一杯くっつけちゃった
から、その肉体の人間を自分自身だと
思っている以上はね。自分の感情の動き
快不快だけを自分だと思ってる以上は、
そこへとどまっちゃうんですよ。それが
自分だと思っちゃう。ところが、神様
というのはそうじゃない。あなた方の
生き方とかおもい方とかね、それから、
過去の苦しみとか、全部、歴史という
ものはご存知の上でね、しかし、
あなた方の中に貫いている、明るい生命
そのものを引っぱり出そう引っぱり出そう
と思ってる訳ね。で、素直にさせよう
素直にさせようとね。苦しいけども
行ったらこうなるよということを
示しながら、何とか明るい方へ明るい方へ
というのが神様なんですよ。何故かと
いうと、あなた方の元の生命というのは
明るいんだから。神様が明るい方へ明るい
方へ、光明の方へ光明の方へ、光の方へ
光の方へなんです。だから皆が光の子
なんです。
          (翌日に続く)

posted by wadatsumihirohime at 09:17| 祈り | 更新情報をチェックする