2018年07月03日

統一ということ(3)

      (前日からの続き)
 キリスト教だろうと仏教だろうと、
白光真宏会だろうと何だろうとね、みんな
そうなんですけどね。我々は、世界人類が
平和でありますようにという、神様のひびき
から出たこの大光明の言葉によって、祈りに
よって、愛深くならせたまえというその
祈りを、この言葉の中に深く感じとって、
そして祈っていく訳です。我々はこれを梯子
にする訳です。エレベーターにする訳です。
 だから、統一というのはね、何も難しい
ことじゃないんです。有りのままの
自分自身をそのまま持って来られて
いいんですよ。病んでいれば病んでいるまま、
疲れていれば疲れているまま、言葉が
出なきゃあ、それでいいんです。別に
守護霊さんや守護神さんもいるんだしね。
 あなた一人だったら大変だけど、
その人たちが助けてくれるんだし、
五井先生もいるんだし、皆いるんだから。
 私がしなければと思っちゃうと、私が私が
の我になっちゃうから。その時そのまんまの
有りのままの、憂い辛いそのままの気持ち
でね。ただ祈れる時には祈る。それ位の
つもりで統一会に出ていただけたらね、
ふんわり出来ましょう。

 やっぱり、ふんわりしなきゃあ駄目ですよ。
 神様と向かい合うのにねえ、カチンコチン
になって緊張してね、もうどうしましょう
なんて思ってると、それだけでこっちは
くたびれるよね。神様とはふんわりした
もんなのよね。愛情も深いし、受けとめる
器も深く大きいし、これはもうたいした
もんなんですねえ。神様自体がふんわりして
らっしゃるんだから、神様の子供である流れ
であるあなた方も、ふんわりして下さら
ないと、神様の流れというものが、いやに
しゃっちょこ張ってこっちに映ってくるん
ですよね。こういう風にいきなければ
ならないというように映ってしまっちゃあ
ねえ、統一も何もないんですよ。

 だから、テープにあるでしょ。私は統一
できなかったとか、いろいろ湧いたとかね、
何か変なものが見えたり聞こえたり、雑念が
湧いたりすることだけに皆把われちゃう
けれども、そういうのはみんな通過点なん
ですよね。そこを通り過ぎて、その人が意識
するしないにかかわらず、皆それぞれの
本心にたどり着くように、統一というものは
もっていくものなんですよ。それは、神様の
側でもっていって下さるもんなんです。
 だから、どういうものが見えても聞こえ
ても、雑念が浮んでも構わないんです。
 それは本質そのものじゃない。それは贋物
か本物かといわれれば、本物じゃない訳です
からね。それが神様じゃない訳ですからねえ。
 贋物だとは言わないけれど、そこを通り
過ぎて行った時に、やっとといいますかね、
神様のふるさとの、素晴らしい愛に抱かれる
ことが我々はできる。
            (翌日に続く)
posted by wadatsumihirohime at 10:08| 祈り | 更新情報をチェックする