2018年08月11日

祈りとゆるし

暑いですね。こう暑いと、人の話を聴いても、
よっぽどのことがないと耳に入ってこないから、
真理のことを喋るんでも、一寸面白おかしく
言わないとはっきり入っていかないかも
知れないけれども。

人間には色々な単位がありますね。単位
というのか、一番小さな単位は家族で、
それから、学校とか社会とか、段々に大きく
なってゆくわけだけれども、この中で、いろいろ
面白くないことが起こったりする。喧嘩ね、
啀み合い、俺のものだ、とかね、家族であれば、
血がつながってるから、まあ流せることも
多いわけだけれども、集団になると、各々の
癖が直接ぶつかり合って、別に何の義理もない
というような場合には、喧嘩も深刻なものに
なってしまう。つまり、個我というものが、
そのまま出てしまうわけですね。そこには、
慎しみとか、遠慮とか、普段私達が人間として
持っている、人に対する配慮といったものが、
全く忘れられた状態になっているわけです。
争ってる時の人間の心というものは、もう
何ともいえない気といいますか、気も濁れば、
想念も真赤に燃えてるわけで、たまに、
交通信号の黄色くらい点したって損には
なるまいと思う程、怒りだとか、口惜しさ
だとか、相手に対して怒っている、というより、
怒りしか見えない、何ともやり切れない状態に
なっているわけです。

で、どうして、そんな浅ましい状態になるか
というと、人間がこの世に生まれて、大きく
なって、成人して、いつの間にか、何かしらの
位置というものを得ます。そうすると、その
位置に対する執着というものが出るんです。
しがみつきたいという想い。これに
からまれると、もう自由自在の心も、どんどん
息苦しくなってきて、いつの間にか世間的な
自分の位置が主人公になってしまって、自分自身
というものは追い出されちゃうわけです。
争っている状態というのは、この、本来、
自分自身でない、一時的に、この世で自分が
果たしてゆく役割を、自分だと思い違いをして、
そこに思い入れしちゃって、癖から性格から
惚れ込んでね、全部与えちゃって、
奉るものだから、気にしなくても大丈夫、
ちゃーんと生きてゆけるようになっているのに、
自分自身が馬鹿にされたと思って争うわけです。

けれども、みんな、自分自身自分自身と
言うけれど、自分自身というのは、そんな
小っちゃなものじゃないんです。宇宙のように
大きく深く拡がってゆくことも出来れば、
ラクダの針の穴という言葉があるように、
細かく細かくなることも出来る。本来、私達に
神様から与えられる能力は、全く測り知れない
ものがあるわけなんです。
それを、変なところで物惜しみをしたり、
引っかかりするものだから、守護霊さんの方で、
こうしてやりたいと思って、一生懸命信号を
送っているのに、万分の一もその力が出て
こないわけなんです。

そりゃあ、わけも無く殴られたり、辱め
られたりすれば、人間の素直な気持ちとして、
何ともやり切れない気持ちが湧き上がってくる
わけですが、祈りというものを知っている私達
としては、その想念に身を任せ切ってしまっては、
それこそマイナスにしかなってゆかない。祈り
というものに、あまり気負いを持たず、構えず、
イライラしたらしたまま、世界人類が平和で
ありますようにと心の中で唱えればいいわけです。

みんな、一生懸命無になろう、悟ろうと思って
やってるけれど、妙な焦り心がある間は、
中途半端で、第一その人自身が満足出来ないわけ
でしょう。お祈りというものは、勿論一人一人が、
守護霊さま、守護神さまを通して神さまに向かって
叫ぶわけだけれど、私なんかから見ていると、
世界人類が─とやり出した途端、みんながみんな、
光明化してしまうわけです。
いろいろな個々の悩みや苦しみやそういうものを
持ち乍ら、しかも、光体になってしまう。
この事実はどういうことかというと、祈りという
ものは、霊界神界─宇宙神につながってゆく
あらゆる光を放射される神霊方と、一人一人の
みなさんとの協同作業だということに他ならない
のです。
言葉を変えて言いますと、光一筋というのが、
人間本来の姿であって、それは、この今の
自分自身が、どのように傷つき苦しんでいようと、
変わることのない光一筋なのだという事実を、
証するものなのです。
祈りというものは、肉体人間が放射せずには
いられない様々な想念を、むしろ土台として、
一層、霊体、神体─神界の自分と一体化を
する為のものだといえるので、このことを、
心に呼び覚ます時、怒りは怒りのままに
終わってはゆかない筈であると思うのです。
怒りもまた祈りに浄められて、すべてが光に
なってゆく。

そのために祈りというものがあるのであります。
すべてを世界平和の祈りに託すとき、私達も、
またこの世界も光にみちてゆくのであります。
          昭和61年7月
             昌 久
posted by wadatsumihirohime at 08:00| 祈り | 更新情報をチェックする