2018年07月10日

自殺した人の霊について(子供の自殺も含む)

 (問)自殺した人の霊はどうなるかという
ことをお教え下さい。



 (答)どこへ行くかということですか。
自殺するって、本当に色んな原因があって、
誰も自殺したくってする人はないんだけれども、
ただ稀に菩薩行で自殺する人があるんですよね。
 全部業を引き受けちゃって、そういう自殺の
場合は、自殺しても苦しい世界に行かないん
ですよ。自分が全部引き受けて
死にますのでね。 




 (問)子供なんかどうなんですか。自殺
しますが、あれなんかどう解釈したらいいのか、
又、残された遺族の方については。



 (答)あれは本当にね、菩薩行も
あるけれども、あの多くは、何か遊ばれてね、
色んなものにとり憑かれて死んじゃうという事
あるんですよ。
 つまり、それこそ幽界の低級霊なんかに憑依
されてね、あるんですね。

 それはその人が、神様を信じないから良く
ないとかそんな事私は言うつもりは全く
ないけれど、結局何故そうなるかというと、
親が子供を本当の意味で愛しているか愛して
いないか、つまり、愛情のすれ違いがあるのか
ないのか、そういうところなんですよ。
 気持ちが通い合っているのかいないのかね。
 相手を理解しているのかいないのかという、
そこがすれ違っちゃうと、人間というのは
寂しくなるんですよ。どんな小さな事柄でもね。

 おそらく小学校卒業するくらいまでの子供で、
自殺を考えなかった子供というと、今ほとんど
いない、100人の中99人まで自殺を考えた
という子供が、沢山いるんじゃないかしらね。
 それは異常なことだというんじゃなくて、
人間というのは生きてゆく中で、死んで
しまいたいという事が何度も何度もあって
そこを越えて生きて行く訳ですよね。
 ところがその子供達の場合は、子供で
なくていいけれども、自殺してしまう人
というのは、そこのところが自分の心にも
歯止めが効かないし、誰も止めてくれない
という絶望感があって、そこで死んじゃう
訳なんですよ。

 それはその人の因縁とか何とか、宗教的に
みれば前生がどうのこうのとあることは
あるけれども、だけれども、そんなんで
片付けられたんじゃあまりにも寂しいわけ。
 それよりは、本当に親が親の役目というか、
親が精一杯子供のほうを向いて、色んな面から
子供の人生を考えて、腹を立てずに見守って、
子供は子供で親にちゃんと伝えてくるのか
どうか、その辺の基本的なところでね、今、
親は親になってない、子供は子供になって
いない、お互いに影響して非常に悲劇に
なって来ていますよね。その辺のところだろう
と思うんですよ。

 だから、想いを放つというか、親が子供に
対して、自分はこれだけお前を見守って
いるんだよという、本当に心配しているんだよ
という、その心が届いていれば子供は死なない
訳ですよ。本当に自分を見守ってくれて
いる人がこの世の中に一人でもいると、親が
駄目なら友達がね、そういう人が居ると思えば
人間というのは死なないんですよね。自分が
必要な存在なんだと思えば死ねないんですよ。
 そこのところが皆、今ぎすぎすして駄目に
なって来ているでしょう。
 ですから、まず子供が子供がと言う前に、
子供がどうやって生きていくか不安だという
前に、じゃあ親はその子供に対して、あるいは
親であることに対して、自信を持っていますか
というね、それぞれがみんな自信を持って
生きるという事に対して援助が足りないん
ですよね。お互いにね。自分のとこだけ
良ければよいという、それだと皆が
成り立ってゆかないんですよね。

 だから私は、私のままでいい、貴女は貴女の
ままでいいから、そのままでいいから一緒に
頑張って行きましょうと。それがお互いに、
ああ私はこれでいいんだなという自信をつけて
ゆくということになりますから。ああ
ありのままでいいんだなという。
 だから、私の言ってる、消えてゆく姿で
世界平和の祈りというのは、その自分なりの
素のまま裸のまま、無一物のまんまでいいから、
後は全部神様が下さるから、そこで人間の
素直な裸の自分を出していく事に恐れないで、
必ず愛情は後ろにあるんだから恐れないで
という事を言う訳ですよね。

 そういう限定されない神様の愛というものを
皆知っていれば、自殺なんてしないんですよ。
 人間の生命が続いていくということを知れば、
本当に死ぬ人なんて一人もいなくなるんですよ。
 ですけど、一足跳びに宗教というよりは、
まず現実的に親も子供もそれぞれ現場の中で
ちゃんと生きているか、今どうなっているか、
歪んじゃいないか、その辺の所に目配りして
気配りする人が増えてゆけば、隣の子供が
ああいう風に言っていたが、あれはどうなった
だろうという、その想いをあげてゆけばね、
行動しなくても想うだけでも、その光が届いて
行く訳ですよ。そういうまず、心を豊かにする、
気持ちをやわらかくする、そこから始まって
いかないと、これは救いようがないですよね。
 だから、自殺するのはどうしてだろう
というのは、それは寂しくって悲しくって
辛くって仕様がないから、そこでどうしょうも
なくて、自殺しかないんですよね。そこの
孤独地獄から救っていかなきゃいけないん
ですよ、自分も人も。
 それには自分が心豊かに生きるというね、
自分だけがいいというんではなしに、自分が
心豊かに生きるということになれば、
まわりも豊かになってゆく。回り道みたい
だけれども、そこから始まってゆかないと、
人間が永生で永遠の生命を持っていて、明るい
朗らかな神様の生命そのものなんだという
所までは、なかなか行かない訳ですよね。

 ですから、あなたのまわりで、そういう風な
気になる子供とか親とかいたら、ほんの一瞬で
いいから想いを放って上げてね、ああ、
あの人も辛いだろうなあと、それだけで
いいんですよ。それがくい止める事に
なるんですよ。生命を救うことになって
いくんです。



posted by wadatsumihirohime at 10:48| 祈り | 更新情報をチェックする

2018年07月09日

老人の生き方について

 (問)老人の生き方についてお尋ねします。



 (答)この頃は、若い人があんまり長く
生きたくないとか言う人が多いですよ。
 誰かさんもどこかでそんなことを言ってた
けれども、何で生きたくないかというと、
どこかでね老醜を晒すという恐怖、それから、
体が弱くなってくるという、それを認めて
いかなくてはならないでしょう。老いる
ということはそういうことですよね。

 老いるということは、体力的な気力的な
ものの衰えというものを認めてゆかなければ
ならない。つまり、記憶もなんか悪くなって
きたとか、そういうマイナスの部分を認めて
ゆかなければいけない。だから切なさとの
戦いですよね。本当にそうなんです。60に
なったら60になった途端全部忘れて
しまっちゃって、今聞いたこと全部
忘れちゃって、又最初から読まなけりゃ
ならない、人の話も又最初から聞かなけりゃ
分からないというようになるんですよ。
 本当にそうなるんですよ。70になったら
もっとひどくなるんですよ。皆そうなんです。
 で、その一つ一つがね、自分にとって
恐怖なんですよ。

 又、老いると、人を容れるという寛容の
心が失せてしまう訳で、その寛容でなくなる
というのは、これはその人の性格という
よりも、その人の生きて来た年令がもたらす
生理的なもので我慢できない。気を長く
しようと思っても、その人のその時の体力
とか生活状態とか色んなことで、生理的に
もう我慢ができなくなって人を怒鳴っちゃう
とかね、そういうことがあるんです。
 そういうものが正しく自分自身である
という風に、ある一瞬間でも見なければ
ならない。それが随分辛いんですよね。
 それが恐怖になってゆくんです。それは
60に70になった人が恐怖だというよりも、
20代でも30代でも40代でもですね、
ああこの辺が我慢できなくなっているなって
いうことになると、人間って愕然となる
ものですよね。結局のところそのあたりの
ことなんですよね。
 それでは、生きてゆく限り皆老人になって
いく訳ですから、老いていくということを
どういう風に考えて生きて行くか
ということはこれは永遠の課題なんです。
 けれどね、生きるということは結局、
生かされているということなんですよね。
 自分が生きるというよりも万物に
生かされているというね、その生かされて
いるところへ自分の意識をもっていくと、
それが全部感謝に変わっていく筈なんですね。
 祈りによって感謝になってゆく。とても
感謝しきれない事もあります。悔しい事も
情ない事も生きている内に色々ありますよね。
 ただ感謝しなけりゃいけない、いけない
いけないと思って、無理に感謝していくと
今度は病気になりますよね。ですから、私が
そのまま悔しい事悲しい事をお祈りの中へ
入れなさいと言うのはね、ありがとう
ございますと言うのが言い難い、言い
難ければ、それはそのままで、五井先生
お願いします神様お願いしますと言えば、
守護の神霊がそのまま祈って下さる
訳ですから。

 若い時には、あの祈りは大調和の
祈りですから、ああいいなあと思っている。
 ところが、歳を重ねる毎に、あの祈りは
難しいなあと思う筈なんですよ。つまり、
すべてにありがとうございますでしょう、
ありがとうございますどころじゃない
気持ちの人達がね、世の中に一杯
いるんですよ。嫁と喧嘩をしている、
息子とうまくいかない、孫が自分と離れて
いく、子供が自分の思うような方向に
いかないと、自分が生きて来た人生は
何だったろうと思う時にね、ありがとう
ございますとはなかなか言えない訳でね、
そのありがとうございますと言えない部分が
増えてゆく訳ですね。だけれども、それが
何故そうなってゆくかというと、その人が
生きて段々歳を重ねていって、人生
というのは一面から観れば、喜びや楽しみ
よりも何か寂しさと悲しみの方が多いという
ことを、自分の経験で知っていく訳ですよね。
 ですから、その経験で計る以上は、何となく
虚しい寂しいのそっちの方が勝って、なかなか
ありがとうございますと言えなくなるんです。

 ですけれども、そこでじゃあどうしたら
いいのかというと、それでも生命というのは
生きる事を止めないという、その事実
なんですよね。みんな生命というものは、
一つとして、この人の生命は要らない、この
草木の生命は要らない、この大地の地球霊王の
生命は要らないというものは何一つとして
ないんですよ。神様の目から観ると。
 この人は悠揚で尊い高い魂だから、
こういう人には生きててもらわないと、
優れた人を見ると皆そう思いますよね。
 ですけれども、黙って意見も言わない
ような、居るか居ないか分からないような
人を見ていると、なんか尊敬する気にも
なれないし、その人が何十年も生きていると、
何をうすぼんやり生きているんだろうと、
別に残酷な意味ではなくても皆思うんですよ。
 ところがね、こっち側から観ていますと、
さっきの話の続きじゃないけれど、やっぱり
誰一人として神様の光を出さない人間なんて
いないんですよね。そういう人程ね、つまり、
何も主張せずぼんやり生きているように
見えるけれども、その中の火は燃えている
というような人、その人程本当に素直に
生かされている、生命のままに流れのままに
生きるということになるんです。

 老人が生きるのが何で難しいかというと、
そこの所に鋭さが鈍くなっていませんとね、
自分の経験によって生きて来た世界によって、
虚しさの方が多いじゃないかと観てしまい
ますからね、そこで負けてしまうんです。その
自分の経験の中に引き込まれちゃうんです。
 で、それを跳ね返す力が弱くなるん
ですよね。ところが老人というのは、人間世界
から観た年令のことであって、これが魂の側
から観れば、魂の古い新しいはありますが、
しかし、生まれてくる生命の中には古い新しい
というものは無い訳です。みんな同じ資質
といいますかね、神の性といいますか、違いは
ありますが、そういうものを持って生まれて
来ているんですよ。だから、この世的に
60になろうが70になろうが、その人の魂が、
やっぱり自分は生かされてる、体が動かなく
ても、何かしたい何かやりたい何か役に
立ちたいという風に思っている限りは、
その人の魂は若いんですよ。ただ非常に
難しいのは、老人というのは、我というのが
強くなるんですよね、自分の生きて来た
経験ではこうだからこうじゃないか、これは
間違っている、これはおかしい
と思うんですよ。無理はないんですけれど
そうなんです。

 それがね、それが人間の我だって気づいて
それを直してゆくということは、なかなか
難しいんですよ。それが凝り固まってゆくと
意固地になり頑固になり、喧嘩ばかり
しているというようになる。そこに、
自分一人じゃない、自分は生かされている
という想いがあるということになってくれば、
自分だけの世界に閉じこもらないで、
歳とっても、もっと広い神様仏様の光の
世界があるということになってくれば、
本当に生命が朗らかになってくるんですよ。
 だから何も宗教だけがいい訳じゃないん
です。広い意味で、いい音楽を聴いても
いい絵を観ても、いい本を観て感激する感動
するということは、それだけ心が若くなって
心寛やかになってくる。それは宗教と同じ、
根は同じなんですよ。

 皆さん縁あって白光を知り五井先生という
人に出会って、そこから神様という階段を
昇り始めた人達というのは、それで尚かつ
歳をとっている人というのは、何に気をつけ
なければいけないかというと、自分が素直に
なるって事と我を出すっていう事の違い。
 そこを区別してゆくのはとても難しい
けれどね。素直になるというのは、ただ単に
自分の思うように生きたらいいというもん
じゃないんです。これは若い時から気をつけ
なければいけないんだけど、思うように
そのまま生きていったら皆我が儘に
なるんですよ。

 神様の流れのままに生きるということは、
私はよく書きますけれど、その神様から来る
流れの中では色んなものがあるんです。
 調和しているものもあれば、一見して
不調和のものもある訳です。大波小波も
ある訳なんです。だから、流れのままに
生きる事は、その大波小波に覚悟して
いけますよという、そういう事なんですよ。
 そこの所を間違えて、いい事ばかり解釈
していると、悪いとみえるような事があった
時に、何で神様がいるんだろう、何で仏様が
いるんだろうになっちゃうんです。ところが、
その流れというのは、本質的には人間を
良くしよう、もっと調和させてやろうという
神様の心ですからね。それに本当に
乗っかって任せきっていればですね、必ず
光も送るし、必ず道が開けるんですよ。
 そこの所で、ああ本当に私は生かされて
いる、本当に祈りがある、本当にここで
任せて任せて任せ切っていったら、自分の
生命が開くんだっていうふうに信じ切って
下さればね、そこで人間の持っている老人の
持っている我なんて、ふっ飛んじゃうん
ですよね。70幾つの人が生きてる、
60幾つの人が生きてるというよりも、
その人の天命自身が輝くんですよ。

 ですから、素直になるっていうのはね、
あくまで神様に素直になるという事
であって、自分の我がでてくるという事
じゃないですよね。ただそれだけに私生活が
非常に難しい。だから、自分が非常に腹が
立ったり切なかったりした、そういう
気持ちを味わった時に、まてよこれは私の我
なのかなあ、それとも神様から来ている
流れの中で覚悟しろということなのかなあ、
ということを考えながら、世界人類が平和で
ありますようにとやってゆくと、お祈りの
中にこめられてる愛念がですね、そりゃあ
お前さん我だよとか、そうじゃない、
そりゃあ神様の流れなんだから覚悟して
受けなさいって事は、後ろが教えて
くれますよ。自分が考える事じゃない
ですよね。後ろが教えてくれますから、
自分が想い悩み始めたなと思ったら、
とに角、祈って、五井先生に聞いて神様に
聞いて、これどっちなんでしょうと、
こっちに預けてくれたらですね、こっちが
ものすごく知らせやすいんです。

 それを皆預けきらないものだから、これは
どうなんだろうか、ああなんだろうかと
想い悩んで、あれはおかしいこれはおかしい
となっちゃうんです。あれはおかしい
これはおかしいという事は、神様の世界には
一つとしてないんですよ、完全ですからね。
ですから、あれはおかしいこれはおかしい、
これは苦しいですよ先生、という時には
こっちへ駆け込んで来ればいい訳なんです。
 まだみんな駆け込み方が足りないんです。

 そういう事ですから、若者も老人も
ひっくるめて、生命に素直になって
生きるっていうことは大変なことですけれど、
そこを目指して、光に満ちた人が出来上がって
いくように、こっち側から応援していますから、
そんな風に生きていってもらったらと思います。



posted by wadatsumihirohime at 11:09| 祈り | 更新情報をチェックする

2018年07月08日

排卵誘発剤を使用しての出産について

 (問)水子オペとはちょうど逆になるん
ですが、排卵促進剤というものも、脳死の
問題と一緒に論じられ、あまり良くないと、
神様の御心を汚すものだと言われており、
一方バイオテクノロジーで遺伝子の
組み替えも出来るという現状において、
子供が欲しいという人達は、手段があれば
どうしても使いたくなるものですが、
このことについてどうお考えでしょうか。



 (答)人間というものは、自分の願望を
いつか現実にかえたいというものがあって、
そういう想いがあって、だから、科学の発達、
現代文明の発達があり、今でこぼこの
ところもあるけれども、こんなに便利に
なったでしょう。そういう中で、生命
について、たやすく排卵誘発剤を使って、
生命がポコポコと出て来るというような
ことは、人間が生命を管理するということに
なってくるから、それに対してどうなんだ
という事だと思いますがね。

 科学というものは、人間世界で考えて
いるようなちゃちなものではないん
ですよ本当はね。生命に対する科学という
ものは、もっと向こうの方では進んでいて、
排卵誘発剤なんて神界から見ていると、
何兆年前の一つの道具に過ぎないので、
全部計算の中に入っているんです。やたら
それをポコポコ生んじゃって、無責任に、
子供は可愛くないのに生んでしまって、
あとどうしようなんて無責任なそんな人が
増えても困るけれども、排卵誘発剤を使う
というような人は、よっぽどの人なんですね。
 本当に子供が欲しい。そういう気持ち、心
というものは、神様には通じているんですよ。

 私だって、まだ世の中に生きていた頃に、
如是我聞にかいてあるでしょ。この人まだ
赤ちゃんが生まれないと何回かお聞きして、
それで写真にお浄めをして、じゃあね
と言ってしてあげたというのは、まだ
あの時代にはそんなものがなかったので、
私はしてあげたけれど、要するにそんなもの
なんですね。

 その人が、真実自分の欲望だけでなくって、
軽はずみな気持ちだけでなくって、本当に
子供が欲しいという気持ちがあれば、それが
例え現象的に排卵誘発剤であっても、それを
使って、魂の親と父親が相談して、この子が
生まれるようにしようというような形で
出てくる訳です。だから、ああいうものは
むやみに使ってはいけないけれど、しかし、
本当に今それを使って生まれて来ようと
している生命、あるいは、これから生まれて
来る未来の生命というものは、そういう意味
では、神様の管理下にあると考えた方が
よい訳です。

 で逆に、産児制限をしている(当時の)
中国なんか一人っ子しか駄目という、
あれは悖(もと)るんです。どんな形
であっても、人間が生活してゆくことで、
地球だって狭いしね、人間の生きてゆく
都合というものがありますから、どんなに
広い家を建てたいと思っても、狭ければ
広く出来ないということと一緒で、人間が
ここまではいいよといって許された枠
というものをはみ出した時には、それは
畏れを知らないということになる訳ですね。
 その範囲で産児制限を、原則的には
私は産児制限は反対なんですけれど、又、
排卵誘発剤を使って産むということは、
その枠を、人間の良心、宗教的に言えば
本心、そういうものに悖るかどうかという
ぎりぎりのところで判断して、そこで
どうなんだという、そこで考えてゆかないと、
徒らに人を責めることになるし、自分を
責めることになるし、神様というものを
疑うことになる。

 ただ神界では、生命科学の中ではそういう
ものも昔の昔の昔の道具になっています。
 ですから、今にそういうものを使わなく
ても、人間が本当に祈り心で心素直に生活を
してゆけば、自然に宿るようになるんです。
 それは何故かというと、魂の親と地上の
親の連絡というものは本当は出来るん
ですから。本当は魂の親というのは後ろに
いつもいるんですからね。だから、人間の
性(さが)が本当に素直になってゆけば、
魂の親があと一年位したら自分に赤ちゃんを、
女の子を授けてくれるとか分かるように
なるんです。分かるようになる為には
やっぱり遠く思うかも知れないけれど、
祈ってゆかないとどうしようもないんです。
 祈りというのは超能力じゃないけれど、
そういうものをもらうにしても何にしても、
祈りによって霊性開発して、自分を素直に
してゆくところから全部始まるんです。
 科学も全部そこから始まるんです。
 そういうように考えて下さい。



posted by wadatsumihirohime at 09:19| 祈り | 更新情報をチェックする