2018年06月17日

心と本心(3)

         (前日からの続き)
 前も申し上げたかもしれないけれども、
神様というのは人間を裏切らないんです。
 人間はしょっちゅう神様を裏切る
けれどもね。何故、こんなことがあるんなら、
神様なんて信じるものかとかね。たいてい、
自分にとって辛いこと苦しいこと受け入れ
難いことが起ってくると、人間というものは
やっぱり神様を否定したくなる。そう
でしょう。でもそれは、自分の都合の悪い
ことが起ってきた時には苦しくなるから
そう思うんですね。

 ところが、神様というのはものすごい大愛
でね。それで、あなた方にずっと愛の光を
送ってるから、そういう叫びだとか恨みごと
だとか色んなものが来てもね、そういう
涙顔を見ても、可哀想になあと思いながら、
本当のところはずっと光を与え続けて
いるんですね。そういう絶え間のない光、
それが本心ですよね。

 そして、いつも申しますように、
あなた方が神様からの分霊(わけみたま)
であり分生命(わけいのち)なんだから、
その本心の光というものは神様から流れて
くるだけじゃない。見えないけれども、
あなた方の奥の体の中にどこともなく入って
いる。光そのもの、本心。あなた方の中に
ある訳だから、その本心と神様の宇宙神の
大御心とが交流し合って、この世の中という
ものは息づいているんです。あるいは、植物
でも鉱物でも動物たちでもね。そういう
交流がなかったら生命というものはすぐに
枯れてしまいますよ。そういう素晴らしい
宝を我々は神様からいただいているんだねえ。

 ところが、心というものがあってね、
あるいは、感情と言った方がいいかも
わからない。恨みごとだとか、もう勘弁して
ほしいとか、いやだとか、そういうものと
いうのはここから出るんですね。肉体に
まとわりついてくる我というものもここ
なんですよね。ここにからみついてるんです。
 だから、これを自分自身だ、私の心だと
思ってしまうと、思い間違いする訳ですね。
              (翌日に続く)
posted by wadatsumihirohime at 09:43| 祈り | 更新情報をチェックする

2018年06月16日

心と本心(2)

        (前日からの続き)
我々は、本当は色々な座にいるんです。
それは、特に統一しなくてもね。日常の
世界の中でもね。例えば、遊びに行ったり
食事をしたりとか、そういう信仰のことを
離れても、その時その時色んな座に
いるんですね。それはどういうことか
というと、やっぱり気持ちのいい人と会えば
自然に心が和んでね、言葉もやわらかに
なって、色んな話も弾みますでしょ。
そういう時には心が喜んでくるんですねえ。
そうして、色々な煩いを一時忘れて、子供の
ように素直になって、その時には、私達は
素直という座にいますね。そういう自覚を
もたなくても、そういうところへ導いて
下さるのが守護霊さんであり守護神さん
ですね。我々の生命とか生き方とかいう
ものは、もちろんこの世の中においても
向こうに行っても努力が必要ですが、しかし、
知らず知らずの間に守護霊さんとか守護神
さんが、きっちりと我々を行くべきところへ
導いて下すってる。自分も気がつかない内に、
いつの間にか、悩みとか悲しみとかいう
ものを少なくして下すってる。その座という
ものは、あなた方のあるいは我々の気持ち
によって、上がったり下がったり
するんですよ。

 向こうへ霊界移行するでしょう。霊界移行
したばかりの人達というのはね、やっぱり
こっちの世の中の想いとかありますよね。
 早く死んじゃって、(残してきた)子供が
小さいのにとか、ありますでしょ。
 そうすると、向こうは素直というのを
貫いて修行するんですよ。さっき申し
ましたね。神様の愛念というものは、
生き死にを貫いて、そういうものをとっ払っ
ちゃってあなた方を愛してるんだという
ことを申しましたね。だから、そこの
ところを深く信じる。難しいけれども深く
信じる。任せてしまう。それを向こうへ
行ってもやるんです。座禅したりね、色々
ありますよ。色んな修行の仕方がある
けれども、あなた方にもさせたけれどもね。
 だけど、それは何の為か。すっきり自分の
生命が神様の方に抱きとられているという
ことを喜ぶ為の修行なんですね。
 そうでなきゃあ、苦しむ為の修行だったら
何もならない。けれども、向こうへ移行した
ばかりの霊(こっちへ来たての霊)たちと
いうのは、残してきた人のことがやっぱり
気になるでしょ。それはやっぱり、肉体の我
といいますかね、肉体の想いの座に転落
しちゃうのね。で又、一からやり直す。
 そりゃあ厳しいですよ。この世の中で、
子供の為にとか孫の為にとかね、あるいは、
この人の為にとかやってる方がよっぽどやり
やすい。その位厳しい。よく、ひとおもいに
向こうへ行ったらと想うけれども、そうも
いかないんですね。

 やはり、人間のこういう日々の営みの中で、
色々なおもいを経験して、そうしてそれを
乗り越えてね、叫んで呻いて怒って、
そういう色んなところを通り過ぎて、祈り
というところへ行くんでしょ。ですから、
その祈りというのはただ祈ればいいという
もんじゃない。神様へ呼びかける。こんな私
ですけれどもといって呼びかける。その時に、
神様というのは、ああいいよといって
あなた方に答えて下さる。
              (翌日に続く)
posted by wadatsumihirohime at 20:24| 祈り | 更新情報をチェックする

2018年06月15日

心と本心(1)

 これも何度も話をしたことですけれどもね。
 心というものと本心というものは、これは
違うんですね。
 元々から言ってしまうと、本心というものが
あなた方の本来の姿。光り輝く姿なんです。
 どうもね、言葉というものは不自由でねえ、
本心というとその本心というイメージが
湧いてくるでしょう。自分のイメージに
訴えてその像をつくっちゃうからねえ。
 それで、どうにもしょうがなくなっ
ちゃって把われちゃうんだけれども、
なるだけそれをくだいて言おうと思うとね。
 つまり、光明があるところですね。神様の
光が渦巻いているところですよ。それが本心
ですね。それは、あなた方の肉体のもっと
奥の奥の自由な体の、本当に霊妙で細かな
波動の中に、どこともなくスポッと
おさまってる、それが本心ですね。その本心
というものは、いつも私が申しますように、
全く迷いのない姿。言葉をかえて言えば、
本心というのは、迷いも疑いも悲しみも
悩みも何にもないところで、ただ神様だけを
仰いで、神様と一体になってね、神様といる
ということも忘れて、ただその生命を輝かし
ている。そういう場所、そこが本心の座
なんですね。
             (翌日に続く)


posted by wadatsumihirohime at 23:00| 祈り | 更新情報をチェックする