2017年06月10日

ゆるされている生命(後半)

             (前日の続き)
 祈りの場というものは、人間が作る様に思う
けれども、本当は、人間というのは見えない
ところで祈って祈って祈り抜いてる。自分が意識
しようとしまいと、本体というのはずっと祈りの
座についていて、自分というのは神界にいて、
光になって祈ってる。神界にも自分自身がいる
訳ですから。そうして、御心と一体になって、
こっちに光を送ってる。こっちからも光を
送ってる。光の呼びかけ合い、呼び合いを
やってる訳です。呼び返しの中で我々は生きてる
訳なんですね。

 それは何の光かというと、ゆるしの光
なんですね。だから罰も何も無い。罰を当てるとか
当てないとか、そんな狭苦しい、そんないい加減な
世界じゃなくって、その光のシャワーを浴びてる時
というのは、人間は本当に自由になってる。本当に
神の御心の中に入っている自分自身になってる。
 それは、自分が意識しようとしまいと
そうなんです。そうやって人間というのは生きて
いるんですね。ちょうどこの我々の肉体という
ものが、飲んだり食べたり眠ったり、ある程度
動いたりしないと、この肉体の生命を保って
いけないように、我々の奥の複雑な霊妙な体
というものは、神様の光を受けていかないと
生きていけない。

 これは随分と申し上げて来たことですけれども、
その光というものは何から出来ているかというと、
ゆるしから出来てる訳ですね。あるいは愛から
出来てる訳です。愛とゆるしというのは何処から
出てるかというと、神様から分かれて来ている生命
である人間に対する、極まりの無い愛なんですね。

 それは、我々がこの地球に降りて来た時は、この
地球を、神様の御心に従って、神様の御心が顕現
されるような、そういう方針にするべく、我々は
ここに降りて来て、やってた訳なんだけれども、
それが、霊性が働いている間はよかったけれども、
だんだん肉体を被っていく内に、それを
忘れちゃって、人が霊止にならなくなって、
つまり、霊止まるという霊止(ひと)の方を忘れて、
人間の人(にん)という、そっちの方の肉体の方の
人だけが残っちゃって。だけど消えては
いないんです。霊止というのはね。何故かというと、
霊が無ければ我々は生きていない訳ですから。
 ただそれが何か、我(が)の世界の中に今は
なっていて、それが押し込められてる感じ
なんですね。その押し込められてる、ちょっとしか
顔を覗かして今は生きていけない、息が出来ない、
その状態を何とか解きほどいて、解き放ってやって
いかないと、今はもう地球も大変だし、自分自身も
大変だし、世界人類も大変だし、ひいては宇宙も
大変だしね。人間だけじゃない宇宙生命そのもの
だって大変なんです。

 という時に、じゃあ、その全部の生命を
健やかに柔らかに、有るがままの有りのままの
生命を宣り出そうというその祈りというのは、
「世界人類が平和でありますように、日本が平和で
ありますように、私達の天命が完うされますように、
守護霊さま守護神さまありがとうございます」
というあれなんですね。あれで全部救われていく
訳なんですね。だから、あの祈りというものは、
大変な光明体なんです。その光明体を我々は
持ってるんです。それは唯単に、白光の人が
あの祈りをするから救われるとかそういう事では
なくて、元々の神様の御心を祈り言にしたら
ああいうことになる。そうして、その元々の
神様の御心の光そのものというのは、どんな人の
中にも、例えば無神論者の人の中にも、物質
主義者の人の中にもね、皆入ってる訳なんです。

 この世の中でいえば、信仰しない人は救われない
とか色々言うけれども、そんなんじゃないんです。
 それだったらもう小乗(しょうじょう)以下
なんですね、大乗(だいじょう)と小乗とあって、
大乗というのは勝れた乗り物という意味だけれども、
勝れた乗り物というのは神様の大きな大きな大愛で、
その愛とゆるしの光そのものなのです。その愛と
ゆるしからいうと、神様というのはついぞ人間を
責めた事がない。ついぞ人間を裁いたことがない。

 その裁いた事がない神様に、我々がこの生命を
この心を捧げて生きていくことが出来たら、その
時に、神様の方の喜びも大きくなるし、我々の方に
いただいている光だってますますその輝きを増して、
この世の中で成してゆくべき仕事ですね、肉体の
中で関わっていかなきゃならないこと、悩ま
なければならないこと、苦しまなければならない
こと、あるいは喜(よろこ)び事、そういうものも、
何といいますか、スーッと来てスーッと通り
過ぎるんです。

 決して私の申し上げてる事は、ご利益の宗教じゃ
ないんです。人間が果たしていかなきゃいけない
務め、そうして、どうしても果たしていかなきゃ
ならない宿題というものはあるんです。その為に、
肉体の時間が随分くっちゃって、もうとてもじゃ
ないけど五井先生どうにもなりませんという人の
嘆きを一杯聞きますけれども。どうにもなりません
というのは、肉体の我の方の叫びなんでして、その
我というのを溶かして、そして祈りの中へ
入り込んでしまうと、まだまだ、自分の中に、
永遠の生命としての人間の本来心がそこに顔を
覗かせてきまして、そうして、その切羽つまって
どうにもならないというところから反転して、
今度は、大生命の生命の道へスーッと入って
いくんですね。

 そのスーッと入らせていく、入らせていただく、
それが「神様」という素直な呼びかけであり、
我々は一人として一度として、罰せられた事が
ない、責められたことがない、ずっとゆるされてる、
そういう存在なんだ生命なんだ、皆そうなんだ、
白光の人であろうとなかろうと、世界人類が全部、
どんな人であっても、例えば、どんなに罪を
犯したと、この世で裁かれている人であっても、
そうじゃない人であってもね、皆光なんです。皆
光明ですから、そこでお互いを礼拝する。尊敬する。
 そこで祈る、一緒に祈る、共に祈る、一人で祈る。
 一人で祈っても共に祈っても、そのひびきが
世界中をかけ巡る。宇宙全体ひびき合う。

 そういう祈りですから、その祈りに乗って
宇宙神の御心の中にふっと入っていくと、
穏やかになって気が楽になって。そうして、本当に
余分なこと、思い煩い、そういうものはね、
肩の力を抜いて、なるべくこう受けとめていったら、
本当に重荷というものも重くならないで軽くなって
いくもんだというと、これは私の人間としての経験
からも申し上げることができると思うんですね。

 重荷を重くするのが神様じゃない。重荷を軽く
するのが神様なんです。ですから、今どんなに
打ちひしがれてる人でも、どんなにどうにも
ならないと思ってる人でも、どうにもならない
と思ってることが、それが消えてゆく姿
なんですよね。

 どうにもならないというのは、だから、それを
押し込めるんじゃなくて、自分は白光の教えを
聞いてるのに何でこんなんだろうと責めるんじゃ
なくて、あーそうなんだ、消えてゆく姿なんだと
思って、そして、それを思いっきり出して、
泣くなら泣く、叫ぶなら叫ぶね、出して消して
いただいて、そして又生命をいただいてね、
ゆるし放しの愛と平和の元の神様というものに
礼拝をし直して、いただき直しの生命で、毎日を
明るく生きていくということが、一番我々が
この困難の中から救われていく大元の元になって
いく訳なんです。

 そこを赤子のように信仰してゆきますと、絶対に
神様というのは我々をいやな所に変な所に導いて
いかない。必要なものは下さる。絶対に下さる。
 この生命というものを使って下さる時がある。
 その使われ方というのはどういう使われ方を
するか分からないけれども、とに角、神様と私は
一体の生命であって、一筋の生命であって、その
一筋の生命というのは、何の滞りもない朗らかな
何の障りもないものなんだということを確認できる
時に、我々というのは解き放たれていくんです。
その確認というか、それを肉体の我というものに
染み込ませる。そうして、霊肉共に救われていく、
その祈りが、世界人類が平和でありますように
という世界平和の祈りなのでありまして、この光の
祈りというものは、益々これから色々な人に覚え
られていく祈りだと思いますけれども、私共は益々
謙虚になって、この祈りのもとに、神様の愛を
仰いですすんでまいりたいと思います。
            昭和63年6月13日
                五井 昌久
posted by wadatsumihirohime at 09:42| 祈り | 更新情報をチェックする

2017年06月09日

ゆるされている生命(前半)

 我々の生命(いのち)といいますか、生命
と言ってしまうと、皆さんの想像が何処へ
行ってしまうか、色んな所へ行ってしまうと又
面倒なんですけれども。我々自身ですね。この
色んな性格を持ってる我々自身というものを、
そのままに、神様というのは抱き取って、
そして、ゆるして下さってる。

 特に我々のまわりですとね、日本など、そんな
事をすると罰が当たるよとか、それも微風を
残す為に穏やかに、そんな事をしちゃいけないよ
と言うのならいいけれども、そうじゃなくて、
この頃ずうっと世の中を見ておりますと、それは
先祖の祟りなんだとか、おまえの心がけが悪いから
だとかそういう何か、責めるといいますかね、
苛めると申しますか、そういう形で強制しようと
する。正していこうとする。自分の説いてる道が
一番正しいんだと言って、これを信じなければ駄目
だという形で、我々の生命というか心を
向けさせようとする。

 だけれども、何か強制されてですね、強いられて
心をそこへ向けたとしても、果たして人間の気持ち
というものが素直に、その人達の言う、何だか
分かりませんけれど、その絶対者に向いていくか
というと、そういう風には人間の心というのは
造られていないんですね。

 人間の心というのは、唯ひたすらに素直に
なりたいというか、神様の方へ向いて行きたい
というか、それが本来なんですけれども、この
世の中の憂さ、辛いこと苦しいこと悲しいこと
色んなことによって、素直になりたいけれども
素直になれない状況というものが自分の中に生ま
れてきて、あるいはまわりに生まれてきて、とても
じゃないけれどこの世の中は公平だとは思えない。
 とてもじゃないけれど、今自分が幸せな状態だ
とは言えない。という風なことが色々生まれて
来ますとね、これをこちらへ向けばこうなるんだ
というような、そういう強いられ方でその絶対者に
向けと言っても、向けられるもんじゃないんですね。
 で、簡単に申しますとね、人間の心というものは
本来自由です。何故自由かというと、神様から
来ている我々は分生命なんですね。そして、我々は
どんな柵(しがらみ)からも解き放たれて自由に
なりたいと思うけれども、もっともっと我々の本体、
本来の生命というものは、何ものにも把われない
ものだから、この世の中は表面的に何処かに属して
いるとか誰かを養っていかなきゃいけないとか、
色々な義務というものを負ってはおりますけれど、
そうじゃなくって、自分の中で何ものも強いられる
ものがない、そして、何ものからも自由である。
 それは何かというと、元々神様そのものが、
人間を強いるとか何かをしなければ生かして
いかないとかですね、そういう類の方ではない
からなんですね。要するに、もう全くの無、無を
突き抜けた朗らかな心、それが神様の御心で
ありまして、その御心から分かれて来たのが我々
人間でありますから、そこで、何をしないと
いけないとか、これをすると罰が当たるとか
当たらないとか、そういうことはないんですよね。

 つまり、冥加(みょうが)という言葉があります
けれども、生命冥加とか何だとか。冥加というのは
何かというと、我々が自覚しないところの神仏の
加護なんですね。神仏の守りなんです。つまり、
自覚しないところのというのが、これが有り難い事
なんでしてね。
 神様というのはそうなんです。こちらが眠ってる
時でも忙しくって神様の事を忘れている時でも、
何でもずっと守ってる。愛している。ゆるしている。
 神様の方からは、一度も罰を当てようとしたこと
というのはない訳なんです。今まで。どんな
歴史の中でも。じゃあ、何故戦争が起こったか、
何故人間と人間が争うのか、ね、ノアの大洪水は
先生あれは何だったんですか、色々聞かれる
でしょうけれど。それは、人間の業というものが、
何度も何度も掃除していかないといけないという、
その節目(ふしめ)節目というものがありまして、
歴史の中で、そして、じゃあ罰も何も無いん
だったら、何の為に人間が悩んで苦しむのか、
全くずっと平穏に平和にやっていければいいのに
と思うけれども。
つまり、人間の、何といいますかしら、深さ
ですね、神性。そういうものは何によって浄め
られるか高められるかというと、人間の苦を
通してのね、涙を通しての経験によってだけ
高められるんですね。

 苦労が一概に全部いいかというとそうではない
けれども、そうじゃなくって、それは何か
というと、自己ではない他己の生命、その人の立場
その人の気持ち、その人が何故そういうことを
言ったか、何故そんな風に怒ったか、自分に敵対
したか、あるいは協力をしてくれたか、何故
あそこまで骨惜しみせずにあの人は生きることが
出来るんだろうかとか・・・。それはやっぱり、
相手の立場というものを想いやるということが
ないとやれないんですね。で、その想いやると
いうのは、神様でもない限り、自分の環境以外の
事、自分の価値観以外の事を分かる、理解してね
寄り添ってそして生きて祈って、そうだなあと
思いながら、共に生きるというのはなかなか
難しいんです。
           
 それをやろうと思うとね、やっぱりどっかで
苦しむ。例えば病気になる。父と息子がうまいこと
いかないとかですね。嫁と姑が駄目になってるとか。
 何か平和じゃない、そういう状況というものを
通して、ああ本当に大変だなあー、これは本当に
一緒にやっていくということは大変だなあー、家族
というものは重たいものだなあーとか、色々な
ことを身に染みる訳ですね。そうすると、自分の
身近でそういう風な人を見ると、あああの人も大変
だろうなあーと、同じような経験を持てば、
やっぱりその時に、我しらずその心が分かって
寄り添える訳なんですね。その時に、その人の
為に、ああ本当にあの人が幸せになりますように、
天命が完うされますように、よろしくお願いします
という風に言えるようになる。

 ところが、悲しいことに人間というのは、自分の
経験以外の事というのは、そういう何か思い知ら
される様な事がないと、他の人の複雑な苦しい
辛い気持ちというのは、なかなか分からない
ように今なっている。

 で、それを曇らされてるのは、もちろん大きく
言えば、肉体の我だけれども、その人その人の
環境や、お金があればあるで、お金が無いなら
無いで、あるにも無いにも何か不足が出てくる、
欲が出てくる。色々なところで苦しむ。そういう
ものがある訳なんです。社会的な状況もある訳
なんです。それは霊の生命からいったら余分な
ものなんだけれども、だけれども、余分なもの
だといって、我々はそれを捨て去ることは
出来ない訳ですね。その中で生きていかなきゃ
いけないから。

 それではどうすれば良いかというと、やはり
祈りの中でね、祈りの時には、自分が何億
持ってるとか何とかいう、それは祈りの場所じゃ
ないですね。祈りの時間というのは、神様と私の
時間なんですね。神様に私の心を開いていただく、
そういう時間なんです。そうして、自分の本来心を
解き放って行って、そして、自分はこの世の中に
あっては、とてもじゃないけどたまらないような
状況にあるけれども、だんだん解き放って行くと、
ああ自分の中にも朗らかなものがあるなあー、
静かなものがあるなあー、神様ありがとう
ございます、と言える時に思える時に、神様と一致
することが出来る。だからそれは、「世界人類が
平和でありますように」というあの祈り言の中に
全部入ってる訳ですね。教義にありますけれども、
個人も人類も真の救いを体得できるものである
というあの祈りですね。あの祈りを唱える時に、
我々というのは目には見えませんけれども、
自分の中にある余分なものがその時パーッと掃除を
される訳なんですね。で掃除をしたところで、
色々な経験を積んでいって、そして色々な場所で、
例えば、支部じゃなくったって集会じゃなくっ
たって、宗教的なものを離れたってね。色んな人に
会って色んな立場の人の話を聞くことがあるかも
しれない。悩みを聞くことがあるかも知れない。
 そういう時に、どれだけ、祈りの場じゃ
ない所で、そういうことを無になって聞けるか
ということ、やっぱりそれが大事なんですね。
             (後半へ続く)
posted by wadatsumihirohime at 10:12| 祈り | 更新情報をチェックする

2017年06月08日

宇宙神と同格ということについて(後半)

           (前日の続き)
 今は、魂というか、そういう本来心が
どんどんどんどん磨かれていって、どんな
時にもみ心の中へ入るようにやって
いかないと、この地球の汚れというものは、
なかなか大変なんですね。今随分掃除が
出来てるけれども、でも根っこの所もまだまだ
一杯大変なものがあるから。
 それで宇宙神と同格だというのは、それも
本来本当の意味だけれども、あなた方を
励ます、ね。萎縮(いしゅく)するんじゃ
なくって、縮むんじゃなくって、そうだそうだ
生命の本当の本当の底のところで我々は
そうなんだと宇宙神のみ心の中を見てみると、
自分がまわりを平和にしたい、ゆるして
いきたい、自分もゆるしていきたい、健やかに
育っていきたい、生きていきたい、というのと、
宇宙神の方からこちらを見て、いい人間
一人一人を本当に愛してゆきたい、ゆるして
いきたいというのと、一緒なんですからね。
 何にも変わるところがないんですよ。

 ただこの世の中では色んな煩(わずら)いが
あるから、そういう気持ちになるところが
少ないけれども。
 しかし、先程申しました様に、神様が
生かしている間というのは、悟ってる本体、
あなた方の神体、霊体というのは、常に祈りを
捧げている訳、宇宙神と一緒になって捧げて
いる訳、共に捧げている訳なんです。目には
見えないけれどもね。ですから、分かれるも
分かれないもね、ずーっと一緒なんですよね。
 そういう意味で同格なんです。

 ですから生命のすべてを造った創造主
としての宇宙神というものをへんに想像
してしまうと、そこでおかしなことに
なるけれども、そうではなくて、つまり本当の
心の底のところで、現われも何も超越した
ところで、我々は一本につながっているんだ。
 そこで我々は抱きとられてるんだ。愛され
てるんだ。ゆるされているんだ。だから
我々もささやかでもゆるして、愛して
できるだけ平和にという風に努力をして
やっていったら、その時に自分の中の霊性が
目覚めて、喜んで高まっていってね、自分の
愛の光がゆるしの光がまわりに飛び交って、
そうして、皆の中にその光の輪が広がっていく
というかね。祈りというものはそういうもの
なんですね。

 だから、祈ってる時だけがただ光明心が
出てくる訳じゃない。その時だけが同格
というのも、それも正確じゃない。常に常に
自分の中で自分の知らないところで、自分の
本体は本心は宇宙神と同じような働きを
しているんです。

 父子御霊とキリスト教でいいますよね、
三位一体。あれは、父子御霊という風に
分けることが出来ないんです。あれは本当に
一体なんです。

 たとえば、愛とゆるしと平和というものが
それぞれ違うもんですかといったら、これは
みんな一つらなりに連らなってるというのと
一緒なんです。我々は神から分かれてきた生命
であるというのは、じゃあ神様と人間の生命とは
どんな風に違うんですかというのは、それは
正解じゃないんです。一緒なんです。一緒
なんだけれども、ただ今のこの世の中の色々な
現われでもって、自分の状況でもって、
その言葉なりを測ってしまうと、自分の想像
でもって測ってしまうと、とてつもなく
おかしな事になるわけね。

 そうではない。本体において神体において
本来心において、我々は一時(とき)も神様から
離れたことはない。宇宙神から離れたことは
ないし、宇宙神も離したことは無い。そういう
意味において、不即不離なんだということね。
 これが、我々は宇宙神と同格なんだ
ということの本当の意味なんです。
           昭和63年6月13日
               五井 昌久
posted by wadatsumihirohime at 07:56| 祈り | 更新情報をチェックする