2018年07月04日

統一ということ(4)

          (前日からの続き)
 人というのはね、見える人も聞こえる人も
感じる人もいろいろあるけれども、いろいろな
能力をもってればもってる程、不自由ですよ、
逆にね。ちょっと持っちゃうとね、把われ
ちゃって、大変なことになるんだけども、
そういうものは全部、必要があるからこそ
見させる、聞こえさせるものでね。そんな
ものは、生命に全然関わりがない。永世の
生き通しの生命というものは、見えるとか
聞こえるとか、どんな才能があるかないか
とか、お金も地位も、何にも役に立たない。
 ただ素直な生命になる。それだけでしょ。
 神様に素直になる。それだけですよ。

 そこへ目指してゆくんですからね。そこが
大目的だから、そこへ向かって、我々
いろんな想いを抱いたままでいいから、
お願いしますといって統一に入っちゃうと、
いつの間にか気持ちが良くなって、何だか
訳わからなかったけど、先生の口笛にのって
気持ちよかったと。ああ良かった良かった、
それが一番いいんです。そうやっていく内に、
何だか憂さがとれる、何だか憂うつな
気持ちがちょっと明るい方へ向いていくと。
 それでいいんです。

 人間の想い煩い、業というものはね、
習慣のもんですからねえ。60年
生きてりゃあ、60年の分があるんですよ。
 前生の分から言えば、何百年の分がある
訳ね。その塵を払い落とす祈りでは
あるけれど、その想い習慣というものも
しっこいからね。だから、自分の中に、
ああ高められなかったと思えば、それが業に
なる。高められるかどうかというのは、
神様の方でちゃんとして下さるもんでしょ。
 だから、それはそれで任せておいて、
任せるというのは楽なんですよ。任せると
いうのは、こんな楽なことはないのね。
 神様に任せたら、いつ死のうが生きようが
いいんですよ。もう任せちゃったんだから、
何にも言うことないでしょ。ね、仕事の
心配もいらない。将来の心配もいらない。
 お金の心配もいらない。本当はそういう
ものなんですね。

 だけど、世の中に生きている以上、
そういう訳にいかないから、いろんな
煩いが出てくる。本当はそうですね、だから
そこを見透して、神様というのは我々を
愛して下さる。聖書にあるけど、一日の
煩いは一日で充分だ、もうあんまり
くよくよするなという、そういうイエスの
言葉があるけれど、あれと一緒なんです。
 ずっと引きずっていけば、それが業に
なるの。
 だから、業にならない内に消して
いただいてね、ああ消えてゆく姿だと
思ってね、ああ消えました、ありがとう
ございますと言って、そういうおもいで
統一をふんわりなすってらっしゃれば、
そうすれば、いつの間にかあなた方の光が
益々輝いてね、そして、自分の為にも人の為
にもなっていく。そういう人にいつの間にか
なっていただくようになるんです。
 分かりましたね。それじゃあ。

         昭和63年8月26日
posted by wadatsumihirohime at 09:30| 祈り | 更新情報をチェックする

2018年07月03日

統一ということ(3)

      (前日からの続き)
 キリスト教だろうと仏教だろうと、
白光真宏会だろうと何だろうとね、みんな
そうなんですけどね。我々は、世界人類が
平和でありますようにという、神様のひびき
から出たこの大光明の言葉によって、祈りに
よって、愛深くならせたまえというその
祈りを、この言葉の中に深く感じとって、
そして祈っていく訳です。我々はこれを梯子
にする訳です。エレベーターにする訳です。
 だから、統一というのはね、何も難しい
ことじゃないんです。有りのままの
自分自身をそのまま持って来られて
いいんですよ。病んでいれば病んでいるまま、
疲れていれば疲れているまま、言葉が
出なきゃあ、それでいいんです。別に
守護霊さんや守護神さんもいるんだしね。
 あなた一人だったら大変だけど、
その人たちが助けてくれるんだし、
五井先生もいるんだし、皆いるんだから。
 私がしなければと思っちゃうと、私が私が
の我になっちゃうから。その時そのまんまの
有りのままの、憂い辛いそのままの気持ち
でね。ただ祈れる時には祈る。それ位の
つもりで統一会に出ていただけたらね、
ふんわり出来ましょう。

 やっぱり、ふんわりしなきゃあ駄目ですよ。
 神様と向かい合うのにねえ、カチンコチン
になって緊張してね、もうどうしましょう
なんて思ってると、それだけでこっちは
くたびれるよね。神様とはふんわりした
もんなのよね。愛情も深いし、受けとめる
器も深く大きいし、これはもうたいした
もんなんですねえ。神様自体がふんわりして
らっしゃるんだから、神様の子供である流れ
であるあなた方も、ふんわりして下さら
ないと、神様の流れというものが、いやに
しゃっちょこ張ってこっちに映ってくるん
ですよね。こういう風にいきなければ
ならないというように映ってしまっちゃあ
ねえ、統一も何もないんですよ。

 だから、テープにあるでしょ。私は統一
できなかったとか、いろいろ湧いたとかね、
何か変なものが見えたり聞こえたり、雑念が
湧いたりすることだけに皆把われちゃう
けれども、そういうのはみんな通過点なん
ですよね。そこを通り過ぎて、その人が意識
するしないにかかわらず、皆それぞれの
本心にたどり着くように、統一というものは
もっていくものなんですよ。それは、神様の
側でもっていって下さるもんなんです。
 だから、どういうものが見えても聞こえ
ても、雑念が浮んでも構わないんです。
 それは本質そのものじゃない。それは贋物
か本物かといわれれば、本物じゃない訳です
からね。それが神様じゃない訳ですからねえ。
 贋物だとは言わないけれど、そこを通り
過ぎて行った時に、やっとといいますかね、
神様のふるさとの、素晴らしい愛に抱かれる
ことが我々はできる。
            (翌日に続く)
posted by wadatsumihirohime at 10:08| 祈り | 更新情報をチェックする

2018年07月02日

統一ということ(2)

       (前日からの続き)
 禅をやってる坊さんたちでも同じこと
です。自分の中に仏がいるんだというとね、
皆自力本願になっちゃって、何か傲慢無礼
のように思いますけれどねえ。あれだって
一つの真理でしてね、自分の中に仏が
いるんだってことは、自分は小宇宙なんだ
ということと一緒なんです。その宇宙という
ものを自覚して、その宇宙の広がりと
いいますか、もっと言葉をやさしく言えば、
自分がその神様からいただいている宇宙の光
でもって、皆さんに少しでもやわらいで
いただくということ。

 例えば、自分の笑顔とか、あるいは、
自分の作った料理を食べてもらって喜んで
もらうとか、そういう、要するに人に仕える
ということ、奉仕ということなんです。奉仕
というものは、ただお金を出すとか、何十万
何百万献金するとか、そういうことでは
ないんです。霊妙なやさしい愛の波動
でもって、どれだけ人に接してゆけるか、
それが奉仕であり、大きく言えば、それが
統一なんですね。

 だけども、なかなかそういう風には、
人間は聖人じゃないから、なりにくいでしょ。
 だから、統一会とか実践会とか色々な会の
名前をつけますけどね、勉強会とか、
何とか道場といってそこへ行くのは、自分の
中の本来の心の朗らかな所へ降りて、そこで
光を出して洗ってもらってね、そうして
高められて又帰る。

 これは、言葉で言ってますからね、こんな
ご大層な言葉になるけれども、やはり、我々
というのは何で存在できてるかというと、
神様のひびきによって存在できてる。その
ひびきというものは何かというと、神様の愛
である。だから、愛深い人になるという
ことが一番大事なんです。この世の中に
生きていく為には、知識・知恵も要ります。
 常識も良識も要りますが、一番大事なのは
愛ですね。多少礼儀がどうだこうだ言っても、
そこに本当に労わりの気持ちというものが
ないことにはね、これは宗教も祈りも何にも
あったもんじゃないんです。例えどこの
宗教に入っていてもいなくてもね、愛深く
人に接することが出来た時に、その人は
本当にやさしく強い神様に愛される人
なんですよ。おろがむ心といいますかね、
天地万象拝む心、そういうものがその人には
もう備わってるんですね。備わるというのは、
何も天性というものではなくって、その人が、
自然な自分の心の流れに従って生きていった
結果、そうなる。だから、その人だけに
出来ることじゃなくって、皆そこを目指して
祈っていくでしょう。
           (翌日に続く)

posted by wadatsumihirohime at 08:35| 祈り | 更新情報をチェックする